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粧説帝国銀行事件

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序章 1948年9月2日



クルマはピカピカのパッカードだった。夏は過ぎたが9月初めの真昼の陽射しを受けて燦然と輝いている。車道で自分を待っているそれに向かって進みながら、平沢は灰かぶり姫(シンデレラ)の心境だった。

今は0時。夜の零時でなく昼の正午だが、灰かぶり姫の心境だった。警視庁のビルの中の階段を一階まで降りたときにも足はもつれ、靴が脱げ落ちそうに感じた。その黒塗りの豪華なクルマがカボチャに変わりそうに思えた。そして何百という手に捕まり、引きずられ、首に縄をかけられて隅田川まで連れていかれ、勝鬨橋の欄干にでも吊り下げられて一巻の終わり……。

おれはそのために釈放されたのではないか――そんな気がしてならなかった。目の前には人、人、人。警視庁のビルを出てその前に止まるパッカードへは10メートルばかりの距離だが、その間に津波のように人が押し寄せて行く手を塞ぐ。

新聞や雑誌の記者だ。何十というカメラが向けられ、シャッターが切られる。ニュース映画用と思しきカメラも回されているのが見える。そして洪水のような質問。

「平沢さん、今のお気持ちは!」

「大金の所持について説明を!」

「詐欺を何件も働いていたというのは本当ですか?」

「そのお金を浮浪児に配ったというのは――」

ああ、カボチャに変わると思った。あのピカピカのクルマがカボチャに変わってしまう――そう思った。だが平沢は、幾人もの弁護士に護られてもいた。その者達が前に出て、

「道を開けなさい!」と叫ぶ。「質問は私達を通してください!」

そしてまた、後ろに控えている者が、

「平沢画伯への容疑はすべてデッチ上げです! これは人権の蹂躙であり、芸術の冒涜に他なりません。警察の捜査は違法なもので、画伯は陰謀の犠牲者なのです。この裏には事件を闇に葬ろうという何者かの策略があるのは明らかであり、その真相を必ずや究明してみせると約束します!」

などと声を張り上げるが、そんな言葉をブン屋どもが聞いているはずもなかった。平沢がどうにかクルマにたどり着き、乗り込もうとするところに、

「平沢さん!」「平沢さん!」と呼び立てる。「平沢さん、何かひとこと!」

平沢は顔を俯けてクルマに乗った。続いて弁護士達が次々に乗り込んでくる。

しかし窓の向こうにも記者。ガラスを叩き割らんばかりにしながら喚く。

「平沢さん! 過去に放火を繰り返していたというのは――」

パッカードの車体は群衆に取り巻かれていた。ブン屋どもがメシの種を行かすまいと頑張っている。だが弁護士は、

「いいから出すんだ!」

運転手に言った。カボチャの馬車はどうやらカボチャに変わることなく、人を押し退けて動き出した。

人波を掻き分けて通りに出、濠の端を走り始める。

車内は席が向い合せになっていた。前に三人、後ろに三人が膝突き合わせて座る格好だ。運転席との間はガラスで仕切られている。平沢は後列の真ん中で、弁護士五人に取り巻かれるかたちとなった。

「いやあ良かった。危うく事件の犯人にされるところでございましたね、平沢先生。しかしわたしが弁護人になりましたからは、どうぞご安心ください。官憲どもにはこれ以上、指一本でも触れさすものではありません」

とひとりが言う。平沢が「はあ」と応えると、

「えーえー、そうでございますとも。わたしが弁護人になりましたからは、大船に乗ったつもりでいてくださいませ。てんぷら画の大家にして日本画壇の至宝であられる平沢大璋先生を必ずお護りしてみせます。先生のためであるならたとえ火の中水の中、B-29の空襲の中というものでありまして、たとえ命に代えましても……」

「平沢先生、わたしは先生の無実を固く信じておりました。平沢先生ほどのお方が、人の道に外れることなどするはずがない。ましてや帝銀事件などと。有り得ぬことだ。『不心得な探偵どもが、なんというたわけたことを』と怒りに震えておりました。しかしわたしが弁護人になりましたからは……」

「これは人権侵害です。民主国家の名に恥じることです。平沢先生。わたしは今度の件について、堪忍袋の緒が切れました。警察が先生にしたことは許せない! 許しては決していけないことなのです。わたしは戦います、先生。先生のために、先生のために、平沢先生のためにです。たとえ国家権力が相手だろうとわたしは退かない!」

「先生。わたしが弁護人になりましたからは……」

他の四人もまくしたてる。全員、しゃべるのを止めたなら途端に死ぬ病気ででもあるかのように口を休めることがなかった。『お前はそういう病気なのか』というのは平沢自身が人生の中で人から言われ続けてきたことだが、その平沢が、『あ』とか『い』とか口を挟む隙も余裕も暇もなかった。

パッカードは平沢の家がある中野に向かっているらしい。弁護士どもが口々に同じ話を繰り返すのを15分ばかり聞かされていたが、

「しかし平沢先生、ひょっとすると今度のことは、先生にとってかえって良かったかもしれませんよ」

ひとりが少し声の調子を変えて言った。他の者らが「なにおうっ?」とすぐさま詰め寄ろうとしたが、

「考えてもみてください。先生の名がこの件で広く知られるようになったのです。日本だけでなく海外の新聞にまで平沢貞通の名が書かれ、十億人が今それを読んでいる……」

話がそう続くと彼らも顔つきを変えた。

「おお、そうだ!」ひとりがポンと手を打って言う。「これまでは、日本はともかく外国では先生の名は知られてなかった。しかしこれからは違う!」

「そうだ! きっと世界中から、先生の絵を求める人間が我も我もと集まってくる! オークションで何万ドル、何万ルーブルの値が付けられて――」

「おお! そうだ!」

「そうですとも!」

クルマの中で五人が手を振り、足をドカドカと踏み鳴らした。ついてはわたしを法律上の相談役に。何を言うんだこのわたしがと、互いに押し退け合いながら平沢に迫る。全員の眼に《$》の記号や《金》の文字が浮かんで原爆の閃光のように、ピカリピカリと眩しく輝くのが見えた。

その放射が平沢の胸に届いてドドドンと身を揺さぶる衝撃になった。世界中からおれの絵を買いに人が集まるだって? オークションで何万ポンド、何万フランの値を付けて売られる。描けば描くだけガッポガッポとカネが入る?

そうだ、そうなるに決まっている! 勝ったぞ、と平沢は思った。この7ヵ月、ずっとずっと、脅えながら生きてきた。12人が死んだと知ったあの日におれの人生は終わったものと思っていた。そして霧山(きりやま)のやつに捕まり、詐欺の件がバレたあのとき、もう本当におしまいだと――しかしどうだ。おれは勝った。これでいいのだ。正義は勝つのだ。

「うわはっは」

笑った。それから、

「これからはぼく自身は絵を描かず、若いもんを十人ばかり雇って出来のいいやつにぼくの銘を入れて出す。それでやっていきたいですね。絵描きどもには一割もくれてやればいいだろうから……」

「ほう、なるほど、そんな手が。さすが大家と呼ばれる方は違いますね」

「『ぼくが描いた』とぼくが言ったらぼくが描いた絵になるでしょう。それは贋作と違うわけです」
作品名:粧説帝国銀行事件 作家名:島田信之