短編集74(過去作品)
最初は分からない。しかし考えていくうちに分かってくるのだ。
――そうだ、目の奥に感じる炎を見た時のあの顔だ――
私を見た瞬間に安心感を感じるのだろう。揺らめいている目で見つめられると、抱きしめたくなってくる衝動に駆られてしまう。だが、顔はすぐに冷静さを取り戻し、いつもの若菜に戻ってしまう。
――いつもの若菜――
どれがいつもの若菜なのだろう? 私にいつも見せている表情は私だけのものだと思っているが、本当にそうなのだろうか? 一歩踏み込めない理由がそこにある。
私は若菜の目の奥の炎を忘れていたような気がする。この日急に一大決心を思いついたのは、何か大切なことを忘れていて、その大切なことを思い出したいということだった。それがきっと目の奥の炎で、私はずっとその炎を思い出したかったに違いない。
あれは月が綺麗な秋の夜だった。ゆっくり歩きながら公園のベンチに座った。歩いていて街灯がいくつもあるため、影が放射状にできていた。歩いているためか、それが回転して見えたのだが、そのためジッと下を向いて歩いていた。
「どうしたの? 下を向いて歩いて、深刻なこと?」
「あ、いや、心配はいらないよ」
確かに深刻なことかも知れないが、それは若菜にとっても嬉しいことだと自負もしていた。そのためあまり不安にさせてしまって気持ちを硬直させたくはない。
「真っ白で月が綺麗ね」
「ああ」
そういえば、月が好きだということを以前に若菜から聞かされたことがあった。確か好きな小説家がいて、その人の小説を読むようになって月が気になり出したという。私の場合は夜道を歩くことが多く、しかも長い距離だった。駅から家までが遠いので仕方がないが、そんな時、空を見上げるのも自然な行動かも知れない。
公園のベンチに腰を下ろすと、その時には私の決意も固まっていた。
「若菜、君と付き合いはじめてだいぶ経つね」
「ええ、そうね」
期待と不安からか、お互いに声は上ずっている。少し寒いせいもあったかも知れないが、それだけではないはずだ。
「実は結婚してほしい」
一瞬言葉を失った若菜だったが、彼女から断られるはずはないという思いは強かった。
「ええ、分かりました」
そう言った時の彼女の顔は落ち着いていた。きっと落ち着いて返事ができる瞬間を待っていた違いない。後はお互いにホッとしたのか、ニコヤカな顔になっている。
落ち着いた顔に見える瞬間、若菜の目にはまたしても炎が浮かんだ気がした。しかも見つめていればいるほどその奥に違った光を見つけることができた。
最初はそれが何だか分からなかった。私の知らない若菜を発見したようで、喜び半面、まだ私の知らない若菜がいたのかという一抹の不安があったのも事実だ。しかしそれもこれから徐々に分かりあえばいいのだ。これがゴールではなく出発点だということを再確認する瞬間なのかも知れない。
一大決心をしてかなり経ったかのように感じていたが、告白の一瞬が過ぎて思い返せばあっという間だったような気がして仕方がない。
――こんなものだろうな――
そして長く待たせたはずの交際期間、それすらも一瞬だったような気がする。これからが、二人の本当の生活、期待と不安が入り混じっていたことだろう。
――おや?
告白した後しばらく力の抜けた状態で何も考えられなかったが、ふと空を見ると先ほどまで真上で光っていた真っ白な綺麗な月が赤み掛かっていた。よくよく見つめていると、次第に赤みが増している。それぞれを単独でみることはあったが、これほど鮮明に移り変わっていく月が私は怖くなっていた。信じられない目の前の状況にしばらく視線が釘付けになった。若菜は気付いているのだろうか?
しかしそれからの私は月を必要以上に気にするようになった。
結婚前から読んでいた山香惣一の作品の話を若菜にしたことがあった。
「私は月の話もさることながら、ランプの炎を見つめる話も好きだったわ」
若菜から帰ってきた言葉である。
「ランプの炎? そんな話あったかな?」
「ええ、喫茶店のサイフォンから沸き起こる炎を見つめる話ね。男の人が主人公なんだけど、同じ感性を持った女性を探しているというようなお話だったわ」
「初耳だな。いつ頃の?」
「先生のデビュー当時の作品、月のお話が多くなるずっと前ね」
話を聞いて見ると私の知っている山香惣一のデビューよりもかなり前から若菜は読んでいたことになる。実に気持ち悪く理解に苦しんだが、なぜかそれ以上追求する気にはなれなかった。どうやら、それは私と知り合ったちょうどその頃に読んだ小説だったらしい。
「だからきっと鮮明に時期まで覚えているのね」
そう言って苦笑いを浮かべていた。
若菜の苦笑いには、時々恥じらいのようなものを感じる。妖艶に見えることさえあるのだが、それはきっと落ち着きの裏返しではないだろうか。
私は時々、若菜と本当に同じ時期を過ごしているのかという不安を感じる時がある。
だがそれは錯覚であると悟ったのはかなりあとになってからだった。その不安が炎のように儚いものだという勝手な思い込みだったのかも知れない。
私が仕事から帰っている時だった。あれもちょうど時期としては秋、月の綺麗な夜だとニュースが報じていた時期だった。私がすでに若菜と結婚して三年という月日を過ごしていた日のことだった。
若菜と一緒にいてまだ新婚のような気でいられたのは、きっと子供がいなかったからに違いない。ほしくないわけではない、恵まれなかっただけだ。しかしそろそろという予感めいたものは最近特に感じていた。
――きっと赤飯か何かでお祝いするんだろうな――
そう感じながら、真っ白な月を眺め、少し肌寒くなりかけた風を感じながら家路を急いでいた。
真っ白な月がまわりにある雲を照らし、立体感溢れるがごとく浮かび上がらせているのを見るのも壮大な天空のロマンである。
――そういえば、以前真っ赤に染まった月を見たっけ――
実は今までにその月は頻繁に見ていた。最後に見たのは、そう二、三ヶ月くらい前だっただろうか?
血の色のようで気持ち悪くはあるが、最近見た月に関しては気持ち悪いと感じなかったのはなぜだろう?
しかしこの時間というのは、歩道もない車の離合もやっとという道であるため、車の往来には気を遣う。仕事を終えて変える車が一番多い時間である。そうそう空ばかり気にしているわけには行かない。どうしても街灯をたよりに足元や車の往来に神経を遣わざるおえないのだ。
ある程度歩いてくると、道が開けてくる。ゆっくり前を見ながら歩けるので、また空を見上げた。
――おや?
先ほどまで綺麗に見えていた真っ白い月がどこかへ行ってしまった気がした。天空のどこを探しても見当たらない。今まで真っ赤な月に変わってビックリさせられたことはあったが、まったく消えてしまうのは初めてだ。
私には胸騒ぎがあった。それは「山香惣一」の小説の愛読者であることでピンと来るのかも知れないが、予感めいたものがあったからだ。
雲の厚い影を感じながら、その向こうに真っ赤に染まって見えている月に思いを馳せながら呟いていた。
「若菜、でかした。きっと今夜は赤飯だな」
と……。
作品名:短編集74(過去作品) 作家名:森本晃次