短編集74(過去作品)
真っ赤に染まった月
真っ赤に染まった月
「月というのは実に神秘的なものですね」
こういう話を大学の講義で聞いたような覚えがある。何の講義だったのだろう? それすら覚えていない。教授の気まぐれな脱線話だったような気がする。別にノートに取る必要もないのに、気がついたらシャープペンシルを走らせていた。
教授は早口で何を言っているのか分からない時がある。しかしその時の口調は実にゆっくりで、これがいつもの教授だろうかと感じたのは、まるで昨日のことのようだ。
法学部の私だが、別に神秘的なことに興味がないわけではない。逆に高校時代など、図書館で神秘的で幻想的な小説を読むのが好きな方だった。時間、空間、幻想、妄想、などといったことに敏感に反応し、文庫本の表紙の裏に書いてあるストーリーにそれらの言葉があれば、必ず読んでみたものだ。
好きな作家もいた。幻想的な小説を書くことにかけては第一人者と言われる人で、ミステリーやサスペンスといった小説にはないものを感じさせてくれる。発想が無限に広がる作品が多く、気がつけば終わっていたというようなストーリーに私は魅せられていた。展開が早いというわけではない。時にはゆっくりとした展開から、最後の大どんでん返し、何度となく、読み直したことだろう。そう、一度読んだだけではなかなか理解できないような話が好きなのだ。
「山香惣一」
作家の名前である。
この作家には特徴があった。きっと自分の経験や感情からの作品が多いのだろうが、主人公の性格が作品を読めば読むほど浮き彫りにされてくる。それぞれの作品で違う性格を持った主人公も、続けて読めばそこに共通点を抱くことができる。
――これが山香先生の性格なのかも知れない――
主人公の性格イコール作家の性格、この構図は山香惣一に限ったことではないだろう。しかし、幻想的で神秘的な作品の多くは、ラストをぼかし、その中に主人公の性格をぼかしていることも多いので、考えなしに読んでいてはなかなかそこまで感じることはできない。
山香惣一の作品を読んでいると、大学教授の月についての話を思い出す。
話の内容はハッキリと記憶しているわけではない。幻想的な月を見つめていたいと思う時に思い出すことと、山香惣一の作品を読んでいて、急に思い出す時とくらいである。作品が月に関することでなくとも、なぜか頭に映像のように月が浮かんでくる。それは作品のシチュエーションによっても違うのだろうが、綺麗な満月の時であったり、おぼろ月の時であったりもする。
満月の時はほとんどが白く光った月である。明るさが天空を焦がすようで、赤みを帯びているよりも一番明るさを感じる。太陽の恵みによって光っているなどと思えないほどの光を放っている。
しかし時々どうしようもないほどの赤みを帯びた月を見ることがある。
――ああ、見るんじゃなかった――
何度後悔したことだろうか。
赤みを帯びた月そのものも気持ち悪いのだが、それを見た時というのは、決まってあまりいいことがない。小学生の頃からずっとその感覚があり、テストで最悪な結果を迎えたり、覚えていなければならないことを忘れてしまったりしていた。
テストの場合は実力と言われればそれまでなのだが、勉強していて、たまたま浅くしか見ていなかったところが主な出題だったりする。
――運が悪いな――
と、諦めていたのだが、そんなことが何度も重なると、気にならないことも気になってくる。それが月の色だと感じると、少し気持ち悪くもなった。
――月っていったい何なのだろう?
神秘的なものの対象として月を描くことも珍しくない。ウサギが餅をついているなどとロマンチックな発想もあれば、竹取物語のように、月にお姫様が帰っていくような少しSFチックな発想を昔の人は思い浮かべていた。しかし、科学の発展がそれらを現実的なものに変えてしまう。
例えば地球上でも神秘的な潮の干満、これにしても月の引力の影響だという。毎日微妙に時間は違っているが、必ず訪れる潮の干満である。同じように毎日昇って沈む、天空に浮かぶ太陽や月の影響があっても何の不思議もない。お互いに神秘的なことでも、それが結びつくとするならば、それは完全に真理といえよう。
しかし私の中で結びつかないのが、月の色に関してだった。白く綺麗に光る月は天空を焦がし、赤みを帯びた月は天空に妖艶な雰囲気を残している。きっと気にならなければ空を見上げることもなく、空を見上げることがなければ、気になることもないのだろう。私にとって吸い込まれそうな天空は神秘の塊である。
私こと田島真一は、最近になって結婚した。
二十九歳という年齢が結婚にふさわしい年齢かどうか分からないが、少なくともまわりからあまり反対を受けることもなく結婚することができた。それはきっと妻になる女性の性格がいいことと、私たちの気持ちがまわりに伝わったからだと思っている。
交際期間、約三年。まあまあの期間ではないだろうか。長くもなく短くもなく、お互いの性格や感情の起伏を知るにはちょうどいいくらいなのかも知れない。
名前を島崎若菜という。彼女と知り合ったのは大学時代。友人の紹介だった。元々大学入学までは暗い性格だった私は大学に入るまで友達らしい友達もできなかった。声を掛けられたので友達になったような場合が多かった。
「ここ空いてますか?」
と言った講義室の一角での、こんな些細な会話から友達が広がっていく。今までの私からは考えられないことだった。
「ええ、どうぞ」
と言ったきり前を向いてしまった私に対し、
「僕は、○○高校出身なんだけど、君は?」
などと会話に幅を持たせる連中が多いのだ。
――さすが大学だ――
コミュニケーションにいろいろな形があることは私にも理解できた。しかし、高校時代では、
――軽いのでは?
と思えるようなことでも平気でできる。これが大学というキャンパスの魅力なのかも知れない。
そんな中、初めてできた友人が尾崎聡だった。少し軽いのではないかとも思えたが、話をしてみると、これがなかなかしっかりしていて、いわゆる自分の考えを持っているやつだったのだ。聡の友達関係から私も友達が増えていき、よく数人で酒を飲んだりしたものだった。
大学のキャンパスというところは実に神秘的な気がする。お世辞にもあまり講義に出る方ではなかったが、大学に行くのは好きだった。何と言ってもたくさんの友人に会えるだけでも楽しく、朝から、
――今日は最初に誰に会えるだろう――
と思うことが一番の楽しみだった。
朝、私はいつも六時には目を覚ましている。出かけるのが八時半くらいなのでかなりの余裕がある。女性であればそこで化粧などの時間を費やすことになるだろうからそれほどの長い時間ではないのだろうが、男であれば、ゆっくりとした時間が持てる。
作品名:短編集74(過去作品) 作家名:森本晃次