Ivy
元自衛隊員の男には、逆らえないボスがいる。それが、何晩も一緒に過ごしたマリンちゃんの説だった。一度、途中でパーティがお開きになったことがあり、本業で急ぎの事態が起きたのだろうと、マリンちゃんは推測した。電話を受けたときの反応は精密機械のように正確で、それだけで関係が分かったと、とっておきの怪談のように話していた。
「これ、全部一気にやったら死ぬ?」
タミーの悩みなど関係なく、ソファから身を乗り出している女王の、甘ったるい口調。眉にかかりそうな前髪の下で忙しなく瞬きを繰り返す、感情を全て集約して押し込めたような、大きな目。タミーは首を横に振った。女王からは、冷蔵庫で一晩寝かされてぐったりしたケーキのような雰囲気が、常に漂っている。
「死なんけど、おすすめはしない」
素直に決められた量を分けた女王は、分量の念押しをするように、タミーの方を一度見た。タミーはその目を見返して、うなずきながら思った。言い出せない。どうして、あの死体が『Q』のパケを持っていたのか。女王は、そんなことは意に介さない様子で決められた量を吸い込むと、かき氷を急に食べたときのように少しだけしかめ面になり、すぐに笑顔で目を閉じて、ソファに仰向けに転がった。女王が思い切り体を伸ばせるように、タミーはソファから立ち上がると、古い業務用冷蔵庫を探り、紙パックのオレンジジュースを開けて、ひと口飲んだ。『Q』が置いてあるのは、二カ所。赤谷と自分しか知らないこのアパートと、自宅だ。あとは、緊急用で女王に持たせてあるのが二袋。使い切ったら返すように言ってあるが、リアルタイムでは数が読めない。最後に渡したのは二週間前だったが、もしかして、片方をどこかに落としたのだろうか。それを運よく中毒が拾って、誰かに殺された。ザンバラは、他の面子に『Q』の話をしなかった。それを貸しだと言って、何か要求してくるような性格にも思えない。気の利く人間で助かった。一緒にいたのが勝男なら、こうはいかなかっただろう。タミーは、オレンジジュースを手に持ったまま、ソファに目を向けた。女王は、自分に関係のないことのようにコカインの感触と踊っている。文字通り、体のあちこちをコカインが通り抜けていくのが見えるように、指先や足先が動く。今のこの状況を作り出したのは、悪い偶然だった。一年前、タミーは『O』のひとりと契約を交わして、『グリル八幡』という名前の居酒屋から出てきたところだった。この付き合いが始まったのは、風邪でマリンちゃんがいなかったからだと、今でもタミーは考えていた。この時飲んでいた『O』は、今問題になっている元自衛隊員とは違って愛想が良く、夜八時の時点で許容量を三杯超えた上に、急な階段を下りるのに神経を集中してさらに酔いが回ったタミーは、一瞬マリンちゃんが一緒だと勘違いし、よろめいて居酒屋の入口に立っていた『女王』にもたれかかった。悲鳴を上げて飛び退いた女王を見て、マリンちゃんではないことに気づいたタミーは慌てて平謝りしたが、女王は体に触れられたのが人生で最悪の経験になったような泣き顔で、『警察に言う』と言った。それだけは勘弁してくれと言っているタミーの横で、気さくな『O』が、『ほな、かっ飛べるやつをたのんますね』と、わざと大きな声で言って立ち去った。トラブルを楽しんでいるような、人を小馬鹿にした目。タミーは答えず、女王に何度も頭を下げて、逃げるようにその場を去った。途中何度か電柱の助けを借りながら、何とか自宅に辿り着くと、後ろから声がかかった。
『歩くの遅すぎ』
女王はさっきとは打って変わって、明るい笑顔を取り戻していた。
『かっ飛べるやつって、なーに?』
酔った勢いで、タミーは『まーやーく』と言い返して、コンマ数秒の内に後悔した。女王は、タミーの目をじっと見つめて、言った。
『気持ちいいまま死ねる?』
『人による』
『わたしはいけると思う? 試してくれませんか。してくれんかったら、警察に言う』
人生の中で人と交わした会話で、あれ以上に衝撃を受けたことはそれまでになかったし、そこから一年が経つ今も、まだ更新されていない。結局、死ぬことと、警察への通報の両方をやめた女王は、タミーの最重要顧客になった。
時々、『致死量を打って』とお願いされるときがある。回りくどいが、今日もそうだった。浮き沈みというか、サイクルがあるのは理解できる。自由に出入りできるように鍵を渡したのは、正直失敗だった。何をしでかすか分からないから、今更取り上げることもできない。オレンジジュースを持ったタミーがソファに座る素振りを見せると、女王は素直に足を引いて場所を作った。腰を下ろしたタミーは、うんざりしたように宙を仰ぐと、目を閉じて言った。
「楽に生きるために使ってくれ。死ぬとか言うなよ」
「なんで言ったらあかんの」
「悲しくなるから」
タミーが言うと、女王は下手なコントのオチを聞いたように短く笑ってから、体を丸めて目を閉じた。
チャイムの音は調子外れで、籠った音がかえって上品に聞こえる。白樺家の、少し古めかしい門によく合っている。新田は耳を澄ませた。鉢植えから地面に垂れた葉を踏む足音が聞こえて、数秒も経たない内に、後ろから両手で背中を押された。
「どちらさまですか!」
新田が驚いたふりをして体ごと振り向くと、ジャージ姿の可奈が歯を見せて笑った。新田は、参考書が入ったリュックサックを掲げた。
「家庭教師です!」
「ですよね! お入りください!」
可奈は門を丁寧な仕草でゆっくりと開けると、早歩きで玄関のドアを開けた。新田が脱いだ靴を並べていると、可奈は言った。
「なー、にっちも浮気してんの?」
この家の中では、『にっち』と呼ばれている。新田は苦笑いしながら立ち上がると、言った。
「誰と? そもそも彼女おらんねんけど」
「探り入れてみただけ」
可奈は笑いながら二階まで先に上がり、新田は母親の姿を探しながら呼び掛けた。
「こんばんは。新田です、お邪魔します」
居間からちらりと顔を出した母が会釈し、新田も頭を下げた。母は言った。
「お菓子、何がいいかな?」
「あ、いえ。僕はなんでも。可奈ちゃんの好きなやつで」
このやり取りはいつも緊張する。新田は二階に上がると、自分が座る予定の座布団に陣取る可奈に言った。
「お邪魔します」
可奈は反対側の自分用の座布団に座り直すと、ドリルの上に乗っていた消しゴムを脇にどけた。新田は鞄から問題集を出しながら、言った。
「もう、片付けてたん?」
「これは学校の宿題。しょーもないやつ」
「しょーもないとか、言わない」
新田は、教科書に直接書かれた解答を眺めた。『練習問題 その一』。その数ページ前にほとんど同じ問題があって、ひねりを加えることなく答えを導けるようになっている。人間の集中力には限界があるから、ポイントに差し掛かった時に、『これは後で出てくる』と頭が危険信号を発信できるかどうかにかかっている。その点、先読みにかけては、可奈は天才的だ。
「教科書に直接書いたら、先生に怒られへん?」
新田が言うと、可奈は首を傾げた。
「貸すとき、ノート渡したらばれるから」