Ivy
何回か前に聞いた話。可奈は、授業が始まる前に、宿題が間に合わなかった友達に回答を見せて回っている。可奈は自分が書いた綺麗な字をなぞりながら、言った。
「何ごとにも、期限というものがありますのでー。本人のためには、ならないと思うんですけどもー」
「大人か。まあ、ええんちゃうの」
新田は、私立受験用の問題集を開いた。可奈は自分のこめかみを指でぐりぐりと押しながら、言った。
「よろしくお願いします」
「ほな、小手調べな。一問目はこれ」
新田は、可奈が言いそうなことを予測しながら、問題を指差した。三か月前に解けなかったのと全く同じ形式だが、気づくだろうか。新田が黙っていると、しばらく考え込んでいた可奈は、言った。
「これ、前に間違えたやつと同じ? ショックやったこれ。クッキー喉通らんかった」
可奈は、問題をエピソードごと覚えている。実際にはクッキーを噛まずに飲み込んで咽ただけだったが、その記憶の回り道が終わる頃には、手が動き始めている。新田は、あらかじめ選んでいた問題にマーカーで丸をつけていき、『小手調べ』が終わったところで、言った。
「今日は、この緑の丸のやつに挑戦しましょう」
三十分が過ぎた頃、少し時間が押し始めたときに部屋がノックされて、お菓子を持って来てくれた母が言った。
「すごい姿勢で勉強してるね」
可奈は机と一体化するように前のめりになっていたが、顔を起こして言った。
「もうちょっとなのです」
新田が礼を言い、母が部屋から出て、目の前にあるケーキに一瞬視線を送った可奈は、首を横に振った。新田は言った。
「ちょっと休憩して、食べよか」
「んー、あかん。まだ途中やから」
「甘い物食べたら、しゃんとするで」
新田が言うと、可奈は問題集から一瞬視線を上げて、言った。
「そういうのを、人は浮気と言う」
「えらい浮気の線押してくるやん。なんかあったん?」
新田の言葉に可奈は答えず、問題を解き終わってから、答え合わせまでを完了させて、ようやく言った。
「秀一さんがな、最近よく分からんの」
怒っているとき、可奈は父のことを『秀一さん』と呼ぶ。ここ数回は、家の話が多い。それまではずっと学校の話だったが、比率が徐々に逆転して、前回は八割方が家の話だった。
「こないだ、美津子さんと電話でケンカしとった」
新田は、ケーキを指差した。可奈は一口食べながら、つい今まで味覚を忘れていたように顔をしかめた。つまり、母も美津子呼びということは、可奈は両方に怒っているということになる。
「内容は聞いた?」
「うん、お兄ちゃんのこととか、何か色々。それから電話してないし、もう別れるんちゃうかな」
「お兄ちゃん、十五やんな? 受験シーズンやから、色々あるんちゃう」
『別れる』という下りを飛び越して新田が言うと、可奈はうなずいて、自分の部屋をぐるりと見回した。
「でもな、にっちみたいな人が、お兄ちゃんにはおらんやん」
受験シーズンになっても、家庭教師がいない。確かに、この家の教育の手厚さは、兄と妹で随分と違う。不良という雰囲気でもなかったが、圭人は掴みどころがなく、仮に今から何かを教えるように言われても、どこから取り掛かっていいのか、新田には想像もつかなかった。
「人それぞれ、得意なことは違うからなあ。スポーツとかやったら、家庭教師とかいらんやん」
「うーん、スポーツなあ。運動神経はいいねんけど」
考え込む可奈は、どちらかというと姉のようで、少し圭人のことが気になった新田は、部屋を見回した。
「今はどうしてんのかな?」
「ゲーセンやと思う。ゲームめちゃ好きやから」
「繁華街の? 補導されてまうよ」
新田が言うと、可奈は笑いながら首を横に振った。
「運動神経いいから、逃げ切ると思う」
今は午後七時前。ゲームセンターにたむろしていて、誰かから怒られるような時間ではない。可奈も同じことに気づいたのか、時計をちらりと見て、言った。
「遅いときは、日付変わってから帰って来たりする」
気まぐれで自由奔放な圭人。そのフレーズでさっきまでの『浮気の線』を思い出した新田は、言った。
「お父さんが怪しいって、話やっけ?」
「うん、秀一さんがな。学会が長引いて帰られへんねんて。でも、学会が伸びるなんて、あんまないことやって美津子さんは言ってて。ほんまやったら、もう帰ってきてるはずやし」
分かりやすい言い訳。新田は言った。
「観光してこようかなーって、そういうやつちゃう?」
「一人で? 浮気相手、町ってこと?」
「まあ、そういう見方もできるかな。俺がお父さんなら、せっかく遠くまで来てるんやし、土産でも探すかって気になるかも」
新田が言うと、可奈は呆れたように宙を仰いだ。
「はー、男はこれやから」
「大人か。土産の質と量でジャッジしたりや。それまでは推定無罪でしょ」
可奈はまだ要領を得ない様子で、髪に指を引っ掻けてくるくると回しながら言った。
「んー。美津子さんが言っててんけど。どこに返すつもりなんって、どういう意味かな?」
新田にもその意味は分からなかったが、初めから冗談だと見抜かれることを承知で、笑顔で言った。
「せやなあ。ビデオ借りっぱなしとか?」
「さっきは気づかんかった。増やしたんやな。てか、体調大丈夫か?」
岡崎の肩から覗く入れ墨を見て、元自衛隊員の男が言った。一旦お開きになった、商品のお試し会。岡崎は初めから体調が優れないふりをして、化粧も敢えて薄くして臨んだ。元々悪い顔色が幸いしてか、男は会うなり『元気ないな』と言ったから、その点は成功だった。
「ごめんなさい。もう大丈夫やと思う。なあ、怒ってない?」
男のことを呼ぶ手段は、あまり用意されていなかった。『あの』や『なあ』など、呼び掛ける言葉はいくつもあるが、名前で呼ばれることだけは、巧みに避けた。
「なんで怒るんよ。心配ではあるけど」
「ありがと」
岡崎の基準で見ても、元自衛隊員は俳優のように二枚目だ。ただ、裏では歯車が動かしているのではないかと思えるぐらいに、その表情の変化は精緻だった。二人で並んで歩くと、ほとんどの人間は、その入れ墨で正体を予測し、道を開ける。岡崎は、男が足を止めた雑居ビルの入口で、辺りを見回した。遠くに、呼び込みに声をかけられているザンバラが見えた。タミーは、ザンバラにも客のふりをして店に入れと言っている。『ザンバラとマリンちゃん』が、元自衛隊員の前で顔を合わせたことはない。つまり、自分はザンバラに監視されている。ザンバラは、店でなければ諦めると言っていたが、男が指した二階の店は、バーの看板を掲げていた。
「ここは、おすすめ」
「楽しみ」