Ivy
二か月前、岡崎は言った。終わりがはっきり決まっているなら、一度ぐらい付き合ってもいいんじゃないかと思っただけで、特に深い意味はなかった。タミーは聞く価値がないことのように、乾いた声で笑っただけだった。岡崎は、テーブルの上に、綺麗に仕分けされてケースに収められたパケが並んでいることに気づいた。それぞれに、丁寧にマジックで書かれた『Q』の文字。ここ一年、タミーは女王に薄口のコカインを提供している。岡崎も味見したことがあるが、ミントのような香りと混ぜられていて、全く飛べない代物だった。目を閉じると、タミーがごそごそと起き上がって、さっきかけた布団から脱出しようと格闘しているのが音で分かった。その布団が自分の上にかけられても寝たふりをしていると、そのまま本物の眠気が来て、岡崎は朝まで眠った。
朝七時、自然に目を覚ました岡崎は、携帯電話に着信が一件残っていることに気づいて、体を起こした。時間は、三時半。眠りに落ちてからすぐにかかってきたことになるが、タミーも起きなかったのだろう。画面に『赤谷』と出ていて、岡崎は布団を蹴飛ばすようにどけると、体を完全に起こした。顔に半分かかった髪をのけていると、ひと晩水に漬け込んだようなむくんだ顔で起き上がったタミーが言った。
「誰?」
「赤谷さんやで。マジかー」
目を丸くしたタミーが台所で湯を沸かし始め、呼吸を整えようとして二度寝しそうになった岡崎が、ようやく折返しの電話をかけると、赤谷がすぐに電話に出て、言った。
「悪い、ちょっとヤバイことになって、隠れとった。今度のOのことや」
少し活舌の悪い、籠った声の調子が懐かしかった。今度の『O』というのは、わたしが今晩会う客のことだろうか。岡崎がそう思って耳を澄ませていると、赤谷は続けた。
「今晩やったな? ちょっと探り入れてほしいんやが」
「えー、警戒されますよ」
岡崎が声を落とすと、赤谷はそれが目的だと言うように、少し大きな声で続けた。
「いつから会ってる? 三か月か?」
「ぐらいっすかね?」
「いつも、全部は使いよらんやろ。そいつら、嵩増しして、うちのブツをよそに流しとるかもしれんねん」
それは困った。岡崎は、タミーにも今すぐ聞かせたかったが、沸騰寸前になったコーンスープと格闘していて、話に混ざってくる様子はなかった。
「ルール違反ですね。でも、そんなことする人らには見えんのですけど」
「とりあえず今晩は、お前は体調がおかしいかなんか言うて、打たんと帰ってこい。引き留められたら、ちょっと薬飲んでから帰ってくるから、相手の好きな店で仕切り直そうって言え」
「難しい難しい、いっぺんに言わんでください」
岡崎はタミーを呼ぼうとして手を振ったが、コーンスープで火傷したのか、タミーは氷水を口に含んでいて、それどころではない様子だった。赤谷は念を押すように、言った。
「その店の名前が分かったら、ザンバラに教えろ」
電話を切ってから、メモをまったく取っていないことに気づいた岡崎は、テーブルの上に書くものが何もないことに気づき、慌てて洗面所まで飛んでいくと、化粧ポーチから取り出した口紅で、聞いたばかりの内容を鏡に書き殴った。
垂れ下がった葉で埋もれた林道の先にある、廃倉庫。女の、わざとらしい小さな拍手。赤谷は血が混じった唾を吐きながら言った。
「自分ら、目的は何や?」
二人の携帯電話を手に持って番号を確認している男が、返事の代わりに煙草の煙を吐いた。赤谷は、パイプ椅子に縛り付けられて身動きが取れなくなった体を捩ると、隣で同じように縛られたまま、一字一句逃さず聞いていたに違いないザンバラの横顔に言った。
「おい、お前もなんか言うたれよ」
ザンバラは、女の手で応急処置されていたが、体のあちこちが打撲傷になっており、心臓の速度に合わせて全身に響く鈍痛に耐えていた。男は、今日マリンちゃんが会うことになっている相手を捉えた写真を、じっと見つめた。
「お得意さん、か。こいつは、海外から殺し屋を送りこんどる。日本人を外地で訓練させて、逆輸入するパイプ役や。バイク便でも、中華料理屋の店主でも、何にでも化けよる。お前、自分の殺したい相手を電話一本でさっくり殺せる時代になったら、怖い思わんか?」
女が、ぎくりとした様子で男の顔を見た。核心に触れる情報だったのだろうか。ザンバラがその様子を観察していると、男は言った。
「溝口、印籠出せ」
溝口と呼ばれた女は、渋々な様子で、ハンドバッグから黒い手帳を取り出した。男は言った。
「警備部外事課、外国人犯罪対策班。君らがクスリで日本人を骨抜きのドアホに変えてる間、そいつらを必死に守らせて頂いてる者や。俺は深川」
深川は、自分の手帳を胸ポケットから出すと、紙切れのようにひらひらと振り、飽きたようにポケットに戻しながら、隅に置かれたテーブルに視線を向けた。完全に常温になったスポーツドリンクの満たされたペットボトルが数本と、現場から回収した『骨』が置かれているだけで、食べ物の類はない。
「朝飯買ってきたるわ。何がええ?」
返事を待たずに外に出た深川に、後から追いかけて来た溝口が言った。
「言ってよかったんですか? あの赤谷は、どっかでしゃべりますよ?」
神経質な仕草で唇を噛む溝口の様子を見て、深川は笑った。
「心配やったら、日本語忘れるまで縛っとけ」
深川は黒いクラウンに乗り込んでエンジンをかけると、トランクを開けて、開いた窓越しに溝口に言った。
「散弾銃持っときや」
溝口は十八インチ銃身のレミントン八七〇を取り出すと、それを胸の前で掲げてトランクを閉めた。深川がギアをドライブにいれたとき、溝口は散弾銃を持ったまま駆け寄った。
「あ、あの。待ってください」
「なんや、殺す気か」
深川が口角を上げて笑うと、溝口は散弾銃を少し下げた。
「すぐ、身元割れますかね?」
顔と指紋という、重要な手がかりが存在しない死体。深川は所轄の強行犯係の面子を思い出しながら、笑った。
「どやろな。今頃、福笑いでもやっとんちゃうか」