Ivy
真面目な話は五秒で終了。会計を済ませて外に出ると、明るく光る『マルイチ水産』のネオンが、ザンバラの目を刺した。マリンちゃんとタミーがタクシーに乗り込んで消えていき、勝男が自分の車の前でふらつくと、諦めたように放って帰って行った。歩いて帰れる場所に家があるのはザンバラだけで、室外機の熱風を避けるように顔を背けながら、全く涼しさが感じられない繁華街を歩いた。マリンちゃんは、ザンバラのことを『職質顔』だと言って笑う。遠くにバイパスが見える空き地の近くで、ザンバラはひと息ついた。もう、二年になる。入ってすぐに気づいたのは、赤谷は薬の原材料を分配されているだけで、何かをコントロールしているわけではないということだった。そんな赤谷は、どこに消えたのだろう。
死体が上がった駅の裏の道を歩いていて、ザンバラはふと思い出した。タミーがつまずいた『骨』の文字は、まだあるのだろうか。植え込みの中を足で探っていると堅い物体にぶつかり、手で触れると、あの金属製の『骨』だということが分かった。あのときはじっくり見る余裕がなかったが、持ってみると結構な重量があった。血はついていないし、警察も見逃したのだから、凶器ではないのだろう。裏には、ボルトのような形の細い出っ張りが数カ所出ていて、接着剤の跡があった。タミーが言っていた『豚骨』説。思い出す限り、こんなロゴを使っていた店はない。しかし、整骨院なら住宅街に一軒ある。ここまでどうやって、運ばれてきたのだろう。そう考えて、『骨』をまっすぐ見つめたとき、ガランガランと引きずるようなエンジン音が聞こえてきて、ザンバラは思わず振り返った。左だけ少し暗いヘッドライトに、ナマズのような平たい車体。どこにいても目立つ黄色。あのカプリスが向かってきている。
「帰ってきたか」
ザンバラは独り言を言うと、片手に『骨』を持ったまま、空いている方の手を振った。
「ちょっと、心配してたんすよー!」
カプリスは返事をするようにがくんと車体を揺らせると、嫌々のようにスピードを上げた。もしかして、見えていないのだろうか。ザンバラは、幾度となく人を撥ねたことのある赤谷の運転を思い出していた。ヘッドライトが暗く、フルスモークで前が見えない上に、ハンドルを握る本人は近視で鳥目。赤谷には、事故を起こす全ての要素が揃っている。ザンバラは、その平たい車体に巻き込まれないよう、闘牛士のように脇にどいた。カプリスは同じ方向へ急ハンドルを切ると、ザンバラを数メートル撥ね飛ばした。『骨』が手から飛んでいき、ボンネットがブリキのような音を鳴らした。着地したときに背中を強打したザンバラは、数秒も経たない内に機械仕掛けのような強い力で引っ張られて、その腕の先にある顔を見ようとした。カプリスの後部座席のドアを開けた男は、手で促した。
「乗れ」
ザンバラが大人しく乗り込むと、男は押しのけるようにしながら隣に座り、ドアを閉めた。ザンバラは、ハンドルを握っているのが赤谷ではなく、スーツ姿の若い女であることに気づいた。隣に座る三十代と思しき男は同じくスーツ姿で、ずっとその瞬間を待ち焦がれていたように、マイルドセブンの箱を取り出すと、一本を抜いて火を点けた。
「くそ暑いな。九月やのに」
運転席の女が大事なことを思い出したように車から降りると、『骨』を拾って帰ってきて、助手席に置いた。抗議するようなだらしないエンジン音を鳴らしながらカプリスが加速を始め、マフラーのばたつく音が後を追うように混じり始めた。港湾道路へ向かっている。ザンバラは、赤谷が最後に行こうとしていた場所を思い出していた。隣に座る男は、マイルドセブンを差し出した。
「吸うか?」
「吸わん」
ザンバラは短く言うと、運転手の女とバックミラー越しに目が合ったことに気づいた。目を見れば、その人間の性質はあらかた分かる。どんな仕事に属していて、どういう立場なのか。人の車で通行人を撥ね飛ばすのが本業というわけではないだろう。しかし、今隣でマイルドセブンの煙を宙に吐いている男と運転手の女は、上司と部下の関係だ。はっきりした縦の関係があるということは、それなりの規模の組織に属しているはずだ。タミーのように、『上司』でありながらマリンちゃんに寄りかかったりすることはない。
「あんま飛ばすな」
言いながら、男が運転席のヘッドレストを叩くと、女がびくりと肩をすくめて、頭を下げた。ザンバラは、自分の髪が血で濡れていることに気づいて、言った。
「病院で降ろしてくれや」
返事の代わりに、こめかみに男の肘打ちが飛んできて、ザンバラは意識を失った。
岡崎は、タクシーの運転手に多めに運賃を払い、愛想のいい笑顔を振りまきながらタミーを引きずるように降ろした。岡崎由希子という本名と一文字も被っていない『マリンちゃん』というあだ名は、岡崎が好きな回転すし店の名前から取られた。打ち上げも、朝ご飯も、軽食も、全てが回転ずし。この商売に誘ったタミーは最初の頃こそ付き合っていたが、元々生魚が好きではないということもあって、次第に足が重くなっていった。岡崎自身も、今でも回転ずしは好きだが、まだ両腕がまっさらだった十九歳の自分のことは、もうよく覚えていない。
「タミー、起きてー」
ぐらぐらと揺すると、タミーは宙を掴むように手を回し、岡崎とは逆方向によろめいて電柱を掴んだ。
「あーごめん、足が動かん」
「それは電柱、わたしはこっち」
まだふらついているタミーが、そのことに気づいてげらげら笑い、岡崎も笑った。気を抜くと眠りに落ちそうになるタミーを引きずり、だらしなくずれたジーンズから引っ張り出した鍵を鍵穴に差し込んで、どうにか廊下まで運び込むと、岡崎は床に座ってひと息ついた。タミーは、床の冷たさを味わうように口角を上げて微笑むと、言った。
「ありがと、泊めてってちょ……」
「なにゆうてんの、自分の家でしょ」
「じゃあ、泊まってって……」
そこまで言い切って、タミーは完全に眠った。廊下に被せるように布団をかけると、岡崎は自分の家のようにソファに腰かけ、枕を頭の位置に寄せて横になって、テレビをつけた。よく、タミーの彼女なのかと訊かれるが、その度に岡崎は否定していた。ただ世話を焼きたくなるだけで、付き合ったが最後、今可愛いと思っていること全てが反転して、耐えがたい欠点になるのは、目に見えている。
『ノストラダムスの大予言、ちょっと信じとったのに』