Ivy
「可奈と違って、僕は頭のほうはあんまりやったんで。高校出てからは現場渡り歩いてたんですよ。客先に上手いこと拾ってもらって、現場代理人になるまでは金欠でした」
三十六歳。険しい現場を渡り歩いてきて、管理する側に回った。いい人生だ。新田は、妻の利子が圭人と同い年だということに気づき、氷で冷やされたお茶が少し温度を取り戻したように感じて、また一口飲んだ。
「新田さんは、取材とかしてるんですか?」
「え、分かりますか?」
新田が少し身を引きながら言うと、圭人は笑った。
「大きいカメラ持ってるし、取材かなって。ご飯食べに行く感じじゃないですよね」
「当たりです。フリーなんで、名刺とかはないんですけどね」
新田は作り笑いを浮かべながら、言った。名刺は実際にはあるが、仲間内ぐらいでしか渡せないような、価値のないものだ。
「ちょうど僕がここで可奈さんを教えてたころに、事件があったんですよ。駅前で、人が殺された事件」
「覚えてます。可奈が集団で登下校すんのが嫌やゆうて、ごねてましたね」
「確か、一回登校してるとこ見たんですけど。まあ、人気者でしたよ」
新田が言うと、圭人は冷え切ったお茶をさらに冷ますように口で吹くと、笑った。
「面倒見がいい性格やから。僕も洗濯のことやら、神経衰弱のコツやら、色々教わりました」
「神経衰弱って、トランプですか?」
新田が言うと、圭人は指を組んで笑った。
「あれって、めくっていくたびに覚えていかなあかんじゃないですか。僕は一回も勝てんかったんですけど、コツを聞いたら、札を開いたときに時計を見るんですって。何時何分に開けたか見といたら、針の形と一緒に柄が浮かぶらしいです」
「僕と話すときも、よく時計見てました。ちょっと、天才過ぎて分かりませんね」
新田は、圭人と顔を見合わせて笑いながら、可奈が、体を半分机にのめり込ませるようにして問題に取り組む姿を思い出していた。
「で、駅前でしたね。未解決になったんでしたっけ」
圭人は、話を元の路線に戻した。新田はうなずいた。
「売人が殺されたって話になってるんですけど、結局身元も分からんままですし。地元でしたから、当時よく見かけた車とか、気にかかることもあって」
「うちの近くも、うろうろしてましたよ。僕は一回クラクション鳴らされたから、よく覚えてます」
「どんな車でした?」
新田が言うと、圭人は、車好きの悪い癖のように、それだけは忘れようがないという様子で、自分に呆れたように笑った。
「十代目のクラウンですね。黒でした。女が運転手で、助手席の男はえらいガラが悪かった」
記憶と一致する。新田はメモ帳を探るように無意識に左手を動かしたが、胸ポケットには手帳がなかった。圭人は当時のことを思い出すように宙を見上げながら、言った。
「僕も当時はあまり素行はよくなかったんで。家の前で座ってたら、夜中にふらふらすんな捕まえるぞって、言われましたね」
「それは、事件が起きてからですか?」
「そうです。ちょっと経ってたかな。現場、しばらく柵とかあったじゃないですか。それがなくなった後やと思います」
現場の封鎖が完全に解けたのは、事件から二週間ぐらいが経った頃だった。しばらく当時の話が続いた後、新田が浮足立っていることに気づいた圭人は、言った。
「繁華街の方、行きますか?」
「そうですね。あの、またお邪魔して、話を聞かせてもらうことは可能ですか?」
新田が言うと、圭人は笑顔でうなずいた。
「次はコーヒーでも。このお茶は、あんまりでしたね」
礼を言って白樺家から出た新田は、日陰でひと息つくと、圭人と話した内容をスマートフォンのメモに入力して、繁華街の方へ目を向けた。頭に残る違和感。『捕まえる』というのは、妙な言葉だ。普通に生きていれば、中々使わないだろう。
警察官でもない限りは。
一九九九年 九月
タミーは、酔うと背骨が溶ける。それとなく支えになっているのは、売人仲間で最若手のマリンちゃんで、せっかく真面目な話をしに来たのに、結局介抱役で終わるのかと諦めた目で、ザンバラに救いを求めるような視線を寄越していた。
「もー、潰れる前に呼んでーよ」
「呼んでから、急にペース早くなってな」
ザンバラが言うと、隣に座る勝男が笑った。
「寄っかかるのが目的やろ」
ザンバラは、言い返せずに舟を漕ぐタミーを見ながら、笑った。勝男は最年長の三十五歳で、酒に強い。いつもグラスの中身と睨めっこしている。店の前まで車で来て、立てないぐらいに飲んだら、車は放って帰る。次の日に取りに行き、駐禁の札が巻かれていたら、ワイヤーカッターで真っ二つに切って、交番の横のごみ箱に投げ捨てている。厳密にいうと『売人』ではなく、縄張り争いが起きないよう境界すれすれの店を渡り歩いて、いつもと違うことが起きていないかを見て回る、言わば用心棒的な扱いだ。マリンちゃんは二十一歳。扱うのはお得意さん向けの『O』で、取引が成立したら、ひと晩帰ってこない。客はそれも含めて買っているということになる。朝帰ってくるときは、自分の商品でトチ狂っている。客からすれば、変な薬を掴まされないための保険の意味もある。
マリンちゃんは、タミーの頭をわざとらしく撫でて言った。
「もー、飲みすぎてほんまに。わたしの介抱を待ってたわけ?」
タミーは首を横に振ったが、マリンちゃんの右肩に入った入れ墨の柄を見て、少し体を起こした。
「増えとる」
「彫りたてホヤホヤやで」
タミーの介抱をマリンちゃんに任せて、ザンバラは腕時計を見た。深夜二時。今日は活動しないが、もし出るなら、一番下っ端だから『S』を扱う。リピーターに化ける可能性のある人間を見分けるのも仕事のひとつだが、一見の客には滅多に売らないことで、タミーが一度、『お代官様ちゃうねんから、見極めんでええって』と言って、怒ったこともあった。タミーは素面の時は理論的だ。飲むと今みたいに、巨大な金髪の子どもに退行するが。
「連絡は、つかんね」
勝男が無理やり真面目な話題に引き戻した。赤谷が消えて二日が経った。駅の裏で上がった死体の話をすると、勝男も心当たりがないらしく、マリンちゃんの『怖っ』という短いコメントで締めくくられた。ザンバラは、タミーの様子を窺ったが、結局『Q』のパケのくだりは敢えて省略した。自分の立場まで危うくなる可能性がある。
「明日の夜、どうします?」
マリンちゃんが言った。クラブにお得意さんが現れる上に、口約束だが、お供をする予定もある。勝男は自分に聞かれるのは迷惑なようで、ウィスキーを一口飲んだ。タミーが少し背筋を伸ばして、言った。
「いけ。大丈夫や」