Ivy
今から二十一年前。平和な町に黒いクラウンが現れて、黄色いカプリスが消え、殺人事件が起きた。新田は立ち上がった。これから、ここには幾度となく戻ってくることになるだろう。単発の事件のようだったが、ずっと地元に住んでいれば分かる。いつも居酒屋の隅を陣取っていたガラの悪い客や、夜中に大音量で音楽を流しながら、ショッピングセンターの裏に路上駐車していた外車。そういう悪目立ちする人間は、初めて見たときに忘れがたい印象を残す。同じように、ぱったりと姿を見なくなったときも。まだ結ばれていない、点と点。事件以降、姿を消した『売人』がいる。
午前中、港湾道路の方へ行って何枚か写真を撮り、かつてカプリスが足止めされた道路に沿うように、大きな倉庫が作られていることに気づいた。昔はがらんとした空き地だったが、今は隙間もない。当時のことを覚えている人間も、もういないだろう。新田は、あまりに様変わりした『現場』をひとつずつ当たりながら、小学校の通学路から一本外れた通りを歩き、角で足を止めた。住宅街に近づくにつれて、当時の記憶と一致する店や建物が現れてくる。角にあるのは、高砂整骨院という昔ながらの個人医院で、金属製の型になった文字が、壁に並んでいる。『骨』の字だけ少し色味が違って、他の文字よりも新しい。この角をまっすぐ行けば、住宅街を抜けて反対側の幹線道路へ抜ける。その間に繁華街があって、カプリスもその辺りを走っていた。左に曲がれば、かつて家庭教師をやっていた『白樺家』があるはずだ。新田は、繁華街へ足を向ける前に、角を左に曲がった。空き家が目立つ。ほとんど記憶に残っていないにも関わらず、二十一年前には確かに人が住んでいたと、頭がはっきりと断言している。もしかして白樺家も、と思ったとき、右手に他の家よりも少しだけ豪奢な門構えの一軒家が現れた。白樺家は元々、壁面の一部に蔦を遊ばせているようなデザインの家だった。今は、とても遊んでいるようには見えない。蔦は東側の一面を覆って二階建ての天井まで回っているように見える。車庫には骨董品のようなライムグリーンの古いローレルと、バンパーが傷だらけになったミラココア。家庭的な雰囲気はない。家庭教師にお邪魔していた頃はエルグランドが一台で、空いたスペースには圭人と可奈の自転車が停まっていた。マスクの隙間から息を吸い込みながら当時のことを思い出していると、ドアが開いて、画家のようなベレー帽をかぶった若い女が出てきて、見送りに出てきた男が、笑顔で鍵を投げた。
「忘れとる」
「わー、ほんまや」
二人は笑顔でしばらく玄関で話していたが、男の『気をつけて』という言葉で締めくくられ、女が傷だらけのミラココアをローレルにぶつかるギリギリで車庫から出して、幹線道路の方へ走らせていった。新田は、男と目が合って小さく頭を下げた。同時に記憶が蘇った。髪型が違う上に学校のジャージも着ていないが、すぐに分かる。圭人だ。年齢を無意識に計算した新田は、三十六歳になった圭人と目が合ったまま、言い出すとしたらどんな言葉が適切なのか考えていた。圭人が車の方へ視線を送って、言った。
「ブタケツお好きなんですか? すみません、売り物じゃないんですよ」
七十年代に生産されていたローレルの愛称。そう言えば圭人は、車の雑誌をよく読んでいた。新田はまた小さく頭を下げて、言った。
「圭人さん……、ですよね」
「そうです。あれ……? 知ってる人かな」
圭人は手で止めていたドアから手を離すと、門の前まで歩いてきて、新田をじっくりと見つめた。新田はマスクをずらせて、言った。
「いや、昔ね。家庭教師でお邪魔してたことがあって」
「マジか。新田さん? 覚えてますよ」
圭人は記憶をひとつに結び付けたようで、目を丸くした。新田は居酒屋が立ち並ぶ幹線道路のエリアを指差した。
「ちょっと繁華街の方へ寄る用事があって。そう言えば昔来てたなと思い出しまして」
「そうなんですか。懐かしいな。この辺に住んでるんですか?」
「市内ではありますね。短い行動範囲で、うろうろしてます」
新田が笑顔で言うと、圭人は口角を上げて笑顔を作りながら、自分の後ろを一度振り返った。
「行動範囲の狭さでは、僕も負けてませんね。それ、カメラですか?」
圭人は、新田がたすきがけにしているカメラバッグを指差した。新田がうなずくと、圭人はローレルの方を向いて、言った。
「僕もカメラ持って、あいつを動かしたいんですけどね。今って、あまり動けんでしょう」
新田はうなずきながら、首の汗を拭った。圭人はドアに手をかけて、言った。
「ちょっと、涼んでいきます? この暑さはヤバイですよ」
新田は断りの形になった手を上げかけたところで、思いとどまった。肩書を名乗るタイミングは完全に逸したが、圭人は、二十一年前のことを覚えているだろうか。門を開いた圭人を、新田は改めて見渡した。掴みどころのない中学生だった頃の面影をほとんど残しておらず、あの後も背は伸び続けたらしく、大柄だった。黒いポロシャツにジーンズという飾らない出で立ちに、食い扶持を稼ぐ中で作られたと思しき、微かな眉間のしわ。
「お邪魔します」
新田が玄関で靴を脱いで並べていると、圭人は笑った。
「可奈はよく言ってました。行儀いいから、靴が靴を並べてるみたいって」
久々に聞いた名前。新田は立ち上がって、記憶を呼び起こそうとしたが、さすがに手は届かなかった。
「そう言えば、言われたような……」
「あ、ちなみにさっき家から出てきたのは、可奈じゃなくて僕の彼女です。ここには、もう僕しか住んでません」
圭人は台所で緩やかに湯気を上げているポットの保温ボタンを消すと、言った。
「彼女がお茶にハマってて。どうも僕は、しかめ面でピリピリしてるらしくてね」
氷を満たした新しいカップにお茶を注ぐと、圭人は片方を新田に差し出した。
「冷えるまでちょっと待ってください。リラックスできるゆうて、色々入れてくれるんですけど。作ってる最中に話しかけたらえらい怒りよるんですわ。お茶が一番要るんは、君なんちゃうんかと」
新田は礼を言うと、圭人とキッチンに対面する形で座り、まだ冷え切っていないお茶をひと口飲んだ。ここ数年、繰り返しになっていた日常。そこへ全く違う道を歩んでいた人間の人生が、勢いよく混ざって来ている。
「この辺、様変わりしたでしょ。残ってるのって、多分ゲームセンターぐらいですよ」
繁華街のゲームセンターは、確か圭人のお気に入りの場所だった。新田は、アメリカの国旗をモチーフにした店の派手な外観を思い出しながら、言った。
「あのまま、今でもあるんですか?」
「オーナーは息子に変わりましたけどね。初芝って名前で、中学の一年後輩なんですよ」
当時のおぼろげな記憶と混ざり合うようで、所々更新された、家電製品。新田はそれとなく部屋を見回した。電球もLEDに変わっている。
「家を継いだ、感じですか?」
新田が言うと、圭人はうなずいた。
「まあ、継ぐといっても、自動的に僕の物になっただけですけどね。固定資産税だけで済むんで、若い頃は助かりました」
相槌に使う言葉を新田が選びかねていると、圭人は補足するように苦笑いを浮かべながら続けた。