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オオサカタロウ
オオサカタロウ
novelistID. 20912
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Ivy

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 今から二十一年前、ここで人が殺された。自分もそれに『触れた』中のひとりだった。新田は、まだ雑草もなかった当時の広場を思い出しながら、それよりもはるかにおぼろげな、大学時代の自分の記憶にも触れた。あの日は、学祭の準備で朝早くに家を出た。普段は人気のない歩道に人が集まっていて、携帯電話を耳に当てている人がいた。それが通報だということに気づいて、視線を追った先に、この広場があった。新田は、数メートル先の地面を見つめた。アスファルトは当時のままだが、もう面影はない。二十一年前の朝六時半、仰向けになった死体がここに転がっていたのだ。足を止めて見ていると、タクシーの運転手を脅すように退けながら、二人の男が死体に近づいていったが、パトカーのサイレンに気づいて足早に立ち去って行った。ヤクザには見えなかったが、今なら、ああいう連中のことを『半グレ』と呼ぶのかもしれない。全てが強烈なスピードで、顔を記憶に留めたり、違和感を頭に刻んだりする余裕は誰にもなかったと、今になっても思う。
 結局、この事件は解決していない。殺されたのは麻薬の売人で、縄張り争いに巻き込まれたというのが通説だが、この地域で麻薬の売買が行われているという衝撃の方が大きかったのか、殺人自体は以降も大きくは取り上げられていない。当時、この近所に住んでいた人間からすると、違和感のある出来事はいくつかあった。新田は、マスクを外して煙草を吸おうかと考えたが、灰皿がないことを思い出して、諦めた。ニコチンの力を借りなくても、思い出すことは簡単だ。あの頃、怪しい車を二台見た。
 一台は、九五年型の黒いトヨタクラウン。外観は至って普通で、リアウィンドウにスモークが張られている以外は、改造もされていなかった。もう一台は、九六年型の黄色いシボレーカプリス。壊れかけているのか、マフラーが走る度に縦に揺れていて、夜に繁華街の前を行き来しているのをよく見た。事件が起きてから後知恵のように呼び起こされて、刻まれた記憶。事件の起きる二日前。港でバイトしている友達を、迎えに行ったとき。出てくるのを外で待っていると、遠くに見える港湾道路をカプリスが走っているのが、目に留まった。反対車線から猛スピードで走ってきた車が、突然進路を塞いだ。事故になる直前で横滑りしながら停車したのは、あの黒いクラウンで、助手席から降りた男がカプリスの運転手に降りるよう促していた。突発的に起きた『半グレ』のトラブルのようにも見える。実際そうなんだろう。新田は灰皿がないことを承知でマスクを外すと、煙草に火を点けた。
 クラウンは、事件の起きた朝にも見かけた。広場にパトカーが集まり出した辺りで、すり抜けるように走って行った。助手席に座る男が現場をじっと見つめていたのを、今でも覚えている。黄色いカプリスと黒いクラウン。二点を結ぶ線を知っているのは、自分だけのような気がしてならない。身近に重要なポイントが転がっていても、生活に追われていれば気がつかないものだ。新田は、殺人現場から数キロしか離れていない住宅街で家庭教師をしていた当時の自分を、思い出した。隣り合う家よりも少しだけ豪奢な白樺家。初日にチャイムを押すときは緊張した。教えていたのは、私立の中学受験を控えた小学六年生の白樺可奈。チャイムを押して待っていると、いつの間にか家の外に出ていた可奈が後ろから『どちらさまですか!』と言って驚かせにかかるのが、通例だった。可奈の当時の悩みの種は、例の事件がきっかけになってしばらく続いた集団登校と、集団下校。理由は『ペースが崩れる』から。新田は一度だけ登校する可奈を見たことがあったが、ありとあらゆる学年の生徒から懐かれて、学校に着くころには生気を完全に奪われているのではないかと思えるぐらいに、賑やかだった。目が合ったが、手を振りたそうに半分ぐらい上げたところで、結局その手は、明後日の方向を向いている下級生の背中に優しく回った。とりわけ世話好きなようには見えなかったが、可奈はとにかく色々なことに気が回る性格だった。小学五年生の二学期から卒業までの一年半を教えたが、本当は家庭教師など必要ないということを、親も理解していなかった。天才に教えられることは大してなく、週二回、割り当てられていた午後六時から七時半までの一時間半は、ほとんどが雑談の時間だった。教えようと思っていたことの半分は、授業が始まる前に理解していて、最初の三十分で残りの半分を終わらせる。興味が続いたら、中学校に上がってからしか習わないようなことを教えるときもあったが、大抵は勉強に対する関心を失って、学校のことを話しながらゴロゴロと過ごすのが通例だった。新田は聞き役に徹していたから、自身の大学生活よりも、可奈の小学校生活の方をよく覚えているぐらいだった。ただ、受験が近づくにつれて、徐々に不安が上回っていったのか、冬にかけて少しずつ、可奈から集中力が削がれていくのが分かった。それでも余力は充分にあり、結果的に合格したが、冬休みは自分の単位よりも可奈の今後の方が、気にかかっていたぐらいだった。そもそも白樺家には、相談できる大人がいなかった。可奈以外でよく顔を見たのは、キャリアウーマンの母親。明るい可奈と正反対の無口なタイプで、家庭教師を雇うことも『夫が決めたことだから』と、あまり関心がない様子だった。次によく会ったのは、可奈より三歳年上の圭人。挨拶を交わす程度だったが、可奈とは似ても似つかないぐらいに突拍子がなく、掴みどころのない雰囲気を持っていた。可奈のことを大切にしているという点は一貫しているようで、それは最初の頃、可奈の頭の良さに驚いた新田が『これだけ進むのが早いなら、時間を短くしてもいけるよ』と言った時に証明された。新田は、可奈が喜ぶだろうと思ってそう言ったが反対に大泣きされ、その声を聞いて、真っ先に血相を変えて部屋に入ってきたのは、母ではなく圭人だった。父は出張族でほとんど家におらず、最初に一回しか会わなかった。小学六年生の二学期の終わりに、可奈から『別れてんて。離婚ってやつ』と聞いたのが最後だった。何か言う時に、時計をちらりと見る癖。流し目のようで可笑しかったのを、よく覚えている。結局、授業を休んだのは、可奈の都合で二回飛ばしたときだけだった。記憶はおぼろげだが、冬の話で、『離婚ってやつ』と時期は重なっていたように思う。
 散らかった記憶。今思い返せば大事だった断片が抜けていたり、どうでもいいことが残り続けていたり、正直頼りない。新田は煙草の灰を落として、かつて血だまりがあった地面を見つめた。あのクラウンは、事件が起きてからもしばらく町内を走っていた。一度覚えると、かなり遠くの方に停まっていても、目が勝手にその方向へ向いて、姿を捉えるようになる。不思議な感覚だった。結べていない点は、まだあちこちにある。時間だけはあるから、自分が一番大きな影響を受けた事件をもう一度調べ直すなら、今以外にない。
作品名:Ivy 作家名:オオサカタロウ