Ivy
返事を待たずに電話を切り、ザンバラはレガシィを停めた。エンジンを切り、側頭部を押さえながら運転席から降りると、つい数時間前に可奈を降ろしたばかりの白樺家を見上げた。点いている電気は、二つ。寝室と、二階の圭人の部屋。ザンバラは手近な石を拾い上げると、圭人の部屋に向かって投げた。窓に人影が現れて、ザンバラの姿に気づくと、部屋から出たのが分かった。しばらく待っていると、玄関が開いて、ジャージ姿の圭人が現れた。ザンバラは側頭部を押さえながら、言った。
「お前、人と話すときはな。前からこうやって声をかけるもんや」
つい数時間前。可奈を降ろして、その後ろ姿を見送ったときに、それは起きた。クラウンから降りていたのが何故だったのか、自分でも覚えていない。それぐらいに、側頭部を殴られた衝撃は強烈だった。ボンネットに手をついて顔を向けたとき、学生鞄が顔に振り下ろされるのが見えたが、それはどうにかして手で弾いた。
「すみませんでした」
圭人は頭を下げた。ザンバラは、車を指差した。
「一旦乗れ。もう時間がない」
レガシィの助手席に座った圭人は、髪を短く刈り込んだザンバラの横顔を見ながら、言った。
「あの後、切ったんですか」
「痛かったぞ」
ザンバラはそう言って、笑った。再度飛んできた学生鞄を、ついに手から弾き飛ばした時、顔が見えた。目が合った時、圭人ははっきりと言った。
『可奈に近づくな！』
意味していることはすぐに分かった。ゲームセンターで自分に付きまとった売人が、可奈を連れて帰ってきたのだ。続けざまに飛んでくる拳と足を受けながら耐えていると、一切反撃しないことに気づいた圭人は、やがて手を止めた。
ザンバラは、ダッシュボードを開けながら、圭人の手を見た。骨に当たった指の付け根が、黒く腫れている。力を失くした圭人に身分を明かしても、それが悪い冗談のように、一回では信じなかった。結局は、肩書などに頼らず、本音を言うしかなかった。
『お前の妹の人生を取り返したい』
ザンバラのその言葉で、圭人は手を完全に下ろした。
『みんなで寄ってたかって、可奈を痛めつける。麻薬売る奴らも、親父も！』
その一言で、ザンバラは結論付けた。死体を見下ろす圭人の写真。この大騒ぎの始点。ずっと、そこに答えがあったのだ。
『あの死体は、お前の親父か』
あの時うなずいたのと同じ、神妙な表情。圭人が少し緊張した様子でダッシュボードの中を見つめていることに気づいて、ザンバラは笑った。
「お前が妹のことを思う気持ちは、充分伝わった」
「全員、捕まえてくれるんですよね？」
その言葉に、ザンバラは小さくうなずいた。全員殺した。もう後戻りはできない。岩村と村岡は、プレハブのような事務所の中で確かに待っていた。ザンバラは、散弾銃を置いたまま丸腰で入った数時間前の自分を笑った。
『深川と溝口は、前で張ってます』
ギャランのナンバープレートと、張っている場所。それを聞いたところで、二人が動かないことは分かっていたが、自分の立ち位置を示しておく必要があった。タミーの組織を一気に壊す。ザンバラがそれを言葉に出し、村岡が椅子から立ち上がったとき、岩村が交換条件を指差した。その指が、自分を指していることに気づいたザンバラは、うなずいた。村岡はしばらく黙っていたが、何も追加で聞くことなく、無言で冷凍車の中に赤谷の死体を移し、クラウンのトランクに敷かれた血まみれのビニールシートを取っ払った。一瞬の隙もない動きだったが、ザンバラはトランクの下に敷かれていた工具に触れようとした村岡を止めた。肩を掴んだ時に振り返ったときの村岡の目は、底無しに冷たく、岩村の言う『機械のような人間』を体現していた。
圭人は、ザンバラがダッシュボードから出した封筒を見ながら、言った。
「これからも、助けてくれませんか？ 俺、ほんまは自分の力で可奈を守りたいんです。でも頭悪いし、失敗するから」
ザンバラは、首を横に振った。
「そうしたいけど、俺は戻られへん。これからは、お前が守るんや。手出せ」
圭人がその通りにすると、ザンバラは封筒の中身を手の上に空けた。『Q』のパケが十袋と、電話番号が書かれたメモ用紙。ザンバラは言った。
「その代わり、切り札をやる。可奈が折れそうになった時のために、お前が持っとけ。でも、絶対に渡すなよ」
矛盾した言葉だったが、それが唯一の答えであることを理解したように、圭人はうなずいた。封筒に戻したところで、メモ用紙の電話番号に目を向けた。ザンバラは小さく息をつくと、言った。
「どうしようもなくなったら、その番号にかけろ。一回しか使えんから、慎重にな」
「繋がるんですか？」
「俺じゃないやろうが、誰かが電話に出る。相手の居場所と、どうして欲しいかを伝えろ。お前が思った通りのことが、相手の身に起きる」
圭人はメモ用紙を封筒にしまい込み、うなずいた。ザンバラは言った。
「でも？」
「絶対に、この番号にはかけるな」
圭人が補った言葉を聞いて、ザンバラは笑った。圭人の泣き笑いのような表情を見ながら、言った。
「なんで、こんな矛盾したことを言うと思う？」
答えが返ってくるとは思っていなかった。それは、これから長い人生の中で気づけばいい。ザンバラは言った。
「可奈だけやなくて、お前のためでもあるからや」
「あの」
圭人は、ザンバラの顔を見ながら、言いにくそうに俯いた。携帯電話が鳴っていることに気づいたザンバラがセンターコンソールに視線を落とすと、それに後を押されたように、圭人は言った。
「名前を教えてください」
事務所で、岩村が裏向きにして差し出した、三枚の運転免許証。『一枚引け。やり直しはなし』と言われて、その通りにした。表を向けると写真がなかったが、年齢は一致しており、名前も書かれていた。
「俺の名前は、柏原」
返事を待つことなく、柏原は助手席のドアを開けた。家に戻っていった圭人の後ろ姿を見送りながら、レガシィのエンジンをかけた。エアバッグのヒューズが抜いてあり、警告灯は点きっぱなしになっている。殺しを専門とする人間がいるなら、そのお膳立てをする人間もいる。積載車のトラックは別の殺しで使うための道具だったが、人を巻き込んで殺せるように特注のサスペンションで車高を上げてあった。底の真ん中には、巻き込まれた人間を捕らえて引きずるための鋼材が溶接してあり、村岡は『でかいな』と呟くと運転席に上った。
まだ鳴っている携帯電話がセンタコンソールから滑り落ちそうになり、柏原は通話ボタンを押した。深川が話すよりも先に、言った。
「お待たせしました。もう、着きますか？」
「なんの話や？」
深川の声は苛立っていたが、柏原の知っていることを探りたいという興味の方が勝っているようで、会話の主導権を敢えて放棄しているのは、明らかだった。柏原は、レガシィを転回させながら、言った。
「白樺家に向かってませんか？ 殺しの件で」
「あの写真は、証拠としては十分すぎるな。ネガを強行犯係にプレゼントしてくるわ」
深川はおそらく、本当にそうするつもりだろう。柏原は言った。
「クラウンの掃除は、大変でしたよ」