Ivy
「お父さん、どんな仕事してるか分かる?」
ザンバラが言うと、可奈は、退屈したように伸びをしながら言った。
「製薬会社やって。たまに、何に使うんか分からん試供品とか、持って帰ってくる」
『サンプル様』。赤谷の上司であり、原材料の提供元。ザンバラは、ヘッドレストに頭を預けた。車の流れが途切れたタイミングに合わせて、クラウンを発進させた。二年に渡る捜査が、終点に辿り着いた。家の本棚の隅に置いてある、誰からも鳴らされることのないPHS。このどうしようもなく血生臭いクラウンに、あの制御不可能な外事課の二人もまとめて、全て報告する。
蔦で彩られた白樺家の少し手前に辿り着き、段ボール箱から『Q』を二袋取ったザンバラは言った。
「予定の分」
可奈は首を横に振った。
「いい。我慢する」
その目の奥に揺らぐことのない芯を見て取ったザンバラは、『Q』をポケットにしまった。
「ひとりで抱え込むなよ。味方はちゃんとおるんやから」
可奈を送り出したザンバラは、少し頼りなさげな後ろ姿が門をくぐるのを見届けて、クラウンから降りた。あの子は、誰かに甘えたことが、今まで一度もなかったのだろうか。だとしたら、それ以上に悲しいことはない。『お兄ちゃんは優しい』という言葉が救いだったが、本人は殺人事件の重要参考人だ。ひとつの歯車を動かせば、何かが崩壊する。しかし、麻薬取締官として、職務は全うしなければならない。その過程で、この一家は一度壊れる。
二〇二〇年 八月
アラーム通りに起きて、『朝の業務』を淡々とこなし、家にひとりになった後、習慣になったように電車に乗り、事件現場に舞い戻った新田のスマートフォンに、メールが届いた。利子の協力を公式に得たことで罪悪感は消し飛び、財布には食事代として家計からお裾分けを受けた三千円もある。昔ながらの取材に立ち戻ったという感覚は、より強くなっていた。
『白樺家に養子として迎えられたのは、五歳の時。実の両親は、小さい頃に交通事故で亡くなってる』
厳然として突きつけられた事実。これで、圭人の出まかせという微かな線は消えた。警察に声をかけられるぐらいに、子供の頃の圭人が法の境目を歩いてきたという事実。今は違うと頭で分かっていても、その言葉からどうしても数パーセントの信憑性を差し引いてしまう。
繁華街の、路上駐車がひしめくゾーン。パーキングメーターもあるが、チケットが置かれている車の方が少ない。少し裏に回れば、昔からやっている料亭があって、今は違う名前だが、昔は『四季』という屋号を掲げていた。下水溝から覗く水の流れは速く、その大元を辿ると、生活排水を海まで追い出すために、人工的に付け替えられた川の支点に辿り着く。赤谷の指が流れ着くとしたら、その元として、一番近い距離で可能性のありそうな候補は、河川敷。車で橋の真下の川べりまで降りることができて、人目にもつかない。永井からのメールが届き、新田はパーキングメーターにもたれかかりながら、内容を読んだ。
『その地域で、事件から二週間後に、轢き逃げが起きてる。その後を辿ったけど、捕まってる感じはない。被害者の名前は、森田勝男』
『縁起のいい名前やな。その男は、死んでる?』
『車体の下に巻き込まれたんか、トラックに二百メートル引きずられて死んでる。ガラのいい人間ではなかったみたいやな』
消えた売人。しかし、新田にとって気にかかっているのは、可奈の件だった。頭を冷やすのに喫茶店に寄るか考えていると、利子からメールが届いた。
『白樺可奈さんは、十六歳になる年に、青井夫妻に引き取られてるわ。事由は、白樺家が安定した生活基盤を保てなくなったため。夫の白樺秀一は九九年に失踪って書いてあるけど、そうなん?』
新田は、返事を送るのも忘れて、パーキングメーターに食い込んでいた体を起こした。そして、気づいた。自分は無条件で、可奈の言葉を信じていた。しかし、あの夫婦は、離婚したのではなかった。可奈の、壁の時計を見る癖。何時何分に言ったか覚えていれば忘れないという、天才の理論。あれは、自分がついた嘘を記憶するための仕草なのだろうか。
『ありがと』
新田はメールに返信すると、腕時計を眺めた。汗はマスクの中を容赦なく濡らし、思ったように体が動かない。体力の衰えを感じる中、ふと思い出した。可奈はいつも元気いっぱいだったが、二回だけ連続して休んだ。授業の日は火曜日と木曜日に設定していたが、事件が起きて二週間ぐらいが過ぎたころ、母から連絡があって、『体調を崩しているので』と短い連絡が入った。風邪気味のときや、顔色が少し優れないときなどは、何度もあった。しかし、完全に休んだことはなかった。復帰した一回目にどんな話をして、可奈がどんな印象だったか、今になって思いだすことはできない。しかし同時期に、可奈が離婚したと言っていた父は、実際には失踪している。
時計と相談して、それとなく駅までの帰り道を歩きながら、新田は断片のほとんどを想像で補って、頭の中を整理した。クラウンは、間違いなく警察だ。関係者のところに満遍なく現れているということは、麻薬関係の捜査をしていたのかもしれない。その関係者の中には、赤谷だけでなく、トラックで轢き殺された森田勝男という男も含まれる。そして、『顔を破壊された死体』も。
永井から電話がかかってきて、メールではないことに驚いた新田は、駅のホームで業務用エアコンの風を浴びながら、通話ボタンを押した。永井は発信中ずっと『おーい』と言っていたようで、その語尾だけが耳に入った。相手がいることに気づいた永井は、咳ばらいをしてから言った。
「橋の上か?」
「いや、エアコンの前」
「風邪引くぞ。てか、熱中症って疑って、すまんかった」
ひとつ前の会話。電車が到着してドアが開き、無意識に足が動いたが、中途半端な位置で立ち止まった新田は空いている方の耳を塞いで、永井の言葉に集中した。
「読むぞ。九九年、九月三〇日の記事。悪質ないたずら」
ドアを閉めるべきか迷っている様子の車掌と目が合ったが、新田は小さく頭を下げて一歩下がった。
「死体発見現場に、骨をかたどった文字」
電車のドアが閉まり、アナウンスとベルが鳴るのと同時に、車両が氷の上を滑るように動き出した。新田は手近なベンチに腰を下ろした。
「骨の文字? 置かれてたんか?」
「当時の写真があるけど、まさに被害者が仰向けに倒れてた場所やな。現場が片付いてから、誰かが置いたんやと思うよ」
礼を言って電話を切った後、すぐに送られてきた写真を、新田は開いた。写真を週刊誌の悪い紙質が台無しにして、さらにそれを永井の携帯電話のカメラが捉えているから、かなりぼやけている。それでも、はっきり分かるのは、高砂整骨院から盗られたものだということ。そしてそれは、初芝の言葉と一致する。中学生時代の、手癖が悪かった圭人。自分が殴った相手の家に盗品を置いたという、妙な行動。ゲームセンターで暴れた時は、看板から盗まれた電球だった。そういう癖のある人間が、もし人を殺したなら?