Ivy
次に来た電車に乗り込んだが、がらんと空いた車内は逆に落ち着かず、新田はベンチ型の座席の端に座って、柱に半分体を預けながら考えた。このまま、家に帰ってしまってもいいのだろうか。しかし、警察に言うとして、何と言えばいい? 怪しいから話を聞きに行ってくださいなどと言ったところで、二十一年前の事件だ。おまけに、初芝の話を元に、想像で補われて辿り着いた結論に過ぎない。新田は家に戻り、マンションのエントランスを通り抜けた。今どき、オートロックすらないマンション。七〇六号室の『新田』と書かれた表札は、少し汚れが目立つ。しかし今日は、自分の居場所に帰ってきたという安心感が上回った。玄関でひっくり返った利史の靴を並べ直して、自分の靴を脱いだところで、廊下を走ってきた利史が言った。
「おかえりー! 早くない?」
「ただいま。そうかな?」
新田は腕時計に視線を落とした。確かに少し早めに着いたが、早く立ち去りたいという気持ちが勝っていたのかもしれない。新田は、利史が二つ持っているキャッチャーミットのひとつを手に取ると、洗面所に歩いて行った。
「手洗いうがい? また外出るのに」
「一応な。うつるぞー」
新田が手を怪獣のようにして利史に向けると、利史は笑いながらミットで顔を庇って、台所に逃げた。新しいマスクに変えた新田は、利史と一階に降りて、キャッチボールを始めた。六時になり、部屋に戻って、いつも通り利史と手洗いうがいをし、食事を作り始めたところで気づいた。買い物リストを、全て飛ばして帰ってきてしまった。とんでもない忘れ物をしたように利史の顔を見ると、利史はすぐに察したようで、怒られるときの顔を真似るように、口を堅く結んで姿勢を正した。
「やばい。俺、怒られるわ」
「どれくらい?」
「殺さ……、いや、倒されるかも」
一瞬、封を切られそうになった事件の記憶。新田は、それを意識的に呼吸と共に抑え込んだが、利史はそれを覚悟の深呼吸を捉えて、背伸びするように新田の背中をぽんぽんと叩きながら言った。
「あるものでいきましょう」
その気の抜けた発言と自信に満ち溢れた表情に、新田は笑った。ドレッシングは二割を残したところで期限が切れていたから、それだけは買いに行かなければならない。料理に集中していても、いい加減に糊付けされた事件の封は簡単に剥がれて、だらしなく頭の中に広がる。警察に行くよりも前にもう一度、本人に話を聞きに行かなければならない。今度は、録音を悟られないようにする。ドレッシング以外がほぼ全て揃った辺りで利子が帰ってきて、玄関で靴を脱いだ。新田は手を拭くと、利子に言った。
「ごめん、買い物忘れて帰ってきてしまって。ドレッシングだけ買ってきていい?」
「あ、このまま行ってくるわ。ドレッシングだけでいいかな?」
利子は脱いだばかりの靴に再び足を入れると、振り返って言った。うなずいた新田の脇を利史が駆け抜けていき、利子が靴を履くのを急かすように飛び跳ね始めた。
「一緒に行く? オッケー」
利子は一階まで下りて、まだ踵が靴にはまり込んでいない利史の後ろに回り、折れ曲がった靴を広げると、言った。
「もういっちょ」
自分の足が靴に滑り込んだことに驚いた様子で、利史は振り返った。どうしても袖の通らない服に、何故かひっかかるマスクの紐。そして、踵に逆らうように入らない靴。利史は、若い頃の父が持っていた危なっかしさを受け継いでいて、次々に披露してくる。
「キャッチボール楽しかった?」
「うん、今日は集中してた」
「お父さんな、仕事でちょっと盛り上がってるとこやねん」
利子は家から一番近いコンビ二に入り、無駄のない動きでドレッシングを手に取った後、利史が両手に持ってきたお菓子を見て、わざと頬を膨らませたが、結局それも買って店から出た。マンションのエントランスを通り抜ける時、入れ違いでドアを開けて押さえてくれていた男の人に、頭を下げた。利史も同じようにすると、男の人は笑った。
七〇六号室。外の熱風に顔をしかめた圭人は、新田の住む古いマンションを見上げた。