Ivy
「それで終わり? それが、警察の仕事?」
厳密には警察ではなかったが、一般人からすればひと括りに警察で、間違いない。ザンバラはうなずいた。
「捕まらんかっただけでも、ラッキーやろ」
可奈は、その言葉が耳に入ること自体を拒絶するように、首を横に振った。そのしかめ面が泣き顔に変わる直前で、言った。
「わたしみたいに、麻薬に逃げる人がおらんようになったら、困るんや。ほんまは、ずっと続けてほしいんでしょ。捕まえる人がおらんようになったら、困るんは警察の人やんか」
「俺の仕事は……」
ザンバラは言いかけて、言葉を選ぶために間を置いたところで歯を食いしばった。上手く説明できない。麻薬なんかに頼る人間がいなくなればいい。そう、心から思っている。この子が麻薬をやめたら? タミーが突然堅気の商売を始めて、マリンちゃんが結婚して主婦になり、勝男が駐車違反の反則金を全て納めたら? そんなことがあり得ないから、麻薬取締官がもぐら叩きのように芽を潰す。毎度毎度、手段を選ばず。苦虫を噛み潰したような顔で。
「俺は……、麻薬で人生を壊す人間を、これ以上見たくない」
段ボール箱を小脇に抱えたまま部屋から出ると、ザンバラは階段を足早に降りて、すぐ後ろをついてくる足音が途切れないよう、ずっと祈っていた。逆方向へ逃げたりしても、追いかけてはいけない。それはこの子が、自分ではなく、その時の『隙』に助けられることを選んだだけだ。クラウンの手前まで来て、自分より少しだけ速いペースで鳴る足音に耐えられなくなり、ようやくザンバラは振り返った。可奈は言った。
「助けて」
ザンバラはうなずくと、後部座席に段ボール箱を放り込んでドアを閉めた。可奈の手に、確約を求めるように上着の袖を引かれながら、再度うなずいた。
「分かった」
助手席のドアを開けて、ザンバラは言った。
「乗って、待っててくれる?」
可奈は素直にうなずくと、ランドセルを胸の前に抱いて助手席に乗り込んだ。ザンバラは階段を上がり、アパートの部屋まで戻った。自分が持っているキーリングから少し小さめの鍵を選び、鍵穴に差し込むと、力いっぱい蹴り込んでから、抜いた。これで、正しい鍵を挿しても簡単には開かなくなる。ありとあらゆる人間を遠ざけて、時間を稼がなければならない。運転席に戻ったザンバラに、可奈は言った。
「忘れ物?」
「時間稼ぎ。とりあえず自宅まで送るから、俺の連絡先を持っててくれ。怪しい奴がうろうろしたり、そういうのがあったら、すぐに電話するんやで」
ザンバラは、かろうじて動作が追いついたように、サンバイザーに挟まった数枚のメモ用紙を抜くと、ペンで自分の電話番号を書いた。それを受け取った可奈は、二つ折りにして制服のポケットに入れ、お守りのように手をかざしながらうなずいた。ザンバラは言った。
「家を教えてくれ」
返事を待たずにエンジンをかけて、ザンバラはクラウンを発進させた。後部座席には、段ボール箱に詰め込まれた禁止薬物と、十発の散弾。そして、銀色に光る散弾銃。助手席には、プレッシャーに潰されそうになって、コカインに手を出した小学生。どこからでも火がつく状況。これなら、自分でも薬に頼りたくなるかもしれない。この子が薬に手を出したときも、そんな瞬間があったはずだ。そう思ったザンバラは、言った。
「助けるためには、まず知らなあかん」
「えっ、はい」
可奈は少し背筋を伸ばして、口を一文字に結んだ。ザンバラは言った。
「さっき、勉強だけじゃないって言ってたよな?」
「賢い子供が欲しかったってことを、ずっと言われてて。もう覚えてないけど、白樺さんが見に来る前は、病院みたいな施設におった」
可奈は、ランドセルの肩ひもを固く握りしめながら、言った。ザンバラが相槌を打つかどうか迷っていると、ずっと連れて歩いてきた重りを外そうとするように、顔をしかめながら続けた。
「五年のときに言われてん。目的は、白樺家から天才を出すことやって」
可奈の言う『病院のような施設』は、おそらく孤児院だろう。白樺夫婦は、伸びしろのある『天才』を探していたということになる。
「お兄ちゃんが優しくなかったら、すぐ潰れてた」
白樺圭人。死体を見下ろす、ぼんやりとした影。ただ、漫然と生きているわけではなく、その目には強い目的意識が感じられた。接したのは、ゲームセンターで箒が顔に飛んでくるまでの数秒間だけだったが、それはよく分かった。ザンバラは言った。
「圭人くん、いや、お兄ちゃんとは仲がいいんやな?」
「うん。それは自信ある」
ザンバラは、可奈の案内に従って国道から少し狭い市街地の道路に折れると、段ボールの底に敷かれた状態になっている写真のことを思い出しながら、言った。
「白樺家は、ずっとこの辺に住んでるん?」
「うん。あの家も、お父さんが子供の頃から住んでる家やったはず」
地元に根付いた一家。ザンバラは、可奈の横顔を一瞬見た。あと一時間もすれば、コカインの効果は切れる。しかし、それには慣れているだろう。
「タミーは、何袋か持たせてんの?」
ザンバラが言うと、可奈は少し心細そうにうなずいた。
「いつも二つくれる。でも、できるだけ我慢してる。余ったのは次に会った時に返したり、持ってたり。分からん。決まりはない感じ」
内容は完全に、自白する中毒者だ。それが子供の声で発せられることに、ザンバラは顔をしかめた。どこまで話しても、これだけは慣れることがないだろう。
「タミーと、どこで会った? あんな金髪のハゲ、怖いやろ?」
ザンバラが言うと、可奈は笑った。『ハゲ』というフレーズが気に入ったようで、自分の言葉で小さく繰り返しながら、口元を手で覆ってしばらく笑い続けた。頬に伝った涙をぬぐいながら、可奈は言った。
「ハゲって、ひどすぎ」
「坊主か? 分からんけど」
ザンバラがつられて笑いながら言うと、可奈は、自分が質問されていたことを思い出して、息を整えた。
「グリル八幡っていうレストランがあって。そこの入口で会った。なんか、誰かと間違えたらしくて、抱きつかれてほんまに気持ち悪かった」
ザンバラは顔をしかめた。ここ数日気を抜くと、形状記憶合金のように顔がしかめ面の形に戻るようになっている。毒ばかりを選んで、胃に詰め込んでいるような状態だ。おそらく、マリンちゃんと間違えたのだろう。可奈はひと回り小柄な上に全く似ていないが、酔いが回ったタミーならやりかねない。
「グリル八幡って、居酒屋やぞ? 入口で何してたんや?」
「お父さんが行きそうな場所で時間潰すのが、流行っててん。会えたら、ご飯連れてってくれるかもしれんし」
ザンバラは路肩にクラウンを寄せた。トラックとセダンが続けざまに追い越していき、クラウンを避ける流れが作られたことを確認すると、ザンバラは言った。
「グリル八幡以外に、お父さんがよく行ってた場所は分かる?」
可奈は、道のど真ん中で停まった状態でいることが落ち着かない様子で、周囲を気遣うように見回しながら、言った。
「四季っていう、めっちゃ高そうな料亭とか。あとは、マルイチ水産」
赤谷とタミーが使っている場所と、完全に一致する。マルイチ水産は、つい数日前に行ったばかりだ。ザンバラは言った。