Ivy
「そうですね。七年経った辺りで、死亡認定されました。母はしばらく探してたみたいですけど。二年前、病気で亡くなったんでね。おったら色々聞けたと思うんですが」
胃の底に、鉛のような重りが落ちたように感じて、新田はそれを悟られないようにうなずいた。これで、圭人の言葉は、当時の可奈の言葉と完全に乖離した。
「ご愁傷様です。大変やったんですね」
新田は、壁にかかった時計に一瞬視線を走らせた。圭人は言った。
「ゲーセン、ぼちぼち開くと思いますが。新田さんが行くからって、言うときますよ」
コーヒーを飲み干した新田は、スマートフォンを片付けると、礼を言って、靴を履いた。
「ありがとうございます。何度もすみませんね」
「また来てください。解決するといいんですけど」
圭人はそう言って、新田のスマートフォンを見つめた。新田は画面を掲げると、録音アプリが終了していることを見せて、言った。
「もう録ってません。オフレコですよ」
圭人は安心したように笑顔を見せると、言った。
「可奈は、僕が八歳のときに、家に来ました。三つ離れてるんで、五歳でしたね」
新田がその意味を理解できないでいると、玄関の鍵を開けながら圭人は続けた。
「可奈はね、養子なんですよ」
炎天下の中を歩きながら考える。マスクのせいもあって、頭が働かない。可奈が養子? 記憶の一部を鉄球で破壊されたように感じる。少し合点がいくのは、可奈が怒った時に、親を名前を呼んでいたことだった。圭人は、自分が靴を履くまでそれを言わなかった。すぐに忘れてほしかったのかもしれないが、完全に逆効果だった。それまでに話したことが頭から完全に飛んでしまうぐらいに。親の呼び方こそ後付けで理解できたものの、当時の可奈からそのような雰囲気を悟ったことは、一度もなかった。圭人と可奈に共通点がないという点だけが、圭人の言葉を裏付けていた。
ゲームセンターは相変わらずアメリカの国旗柄で、開店直後なのもあってか、客はほとんどいなかった。新田は、当時の可奈と交わした会話をできるだけ頭に呼び起こそうとしていたが、店内に入ってすぐに、頭を切り替えた。筐体の調子を確かめるように、設定画面と睨めっこしている太った男が振り返ると、笑顔で頭を下げた。
「えっと、新田さん? こんにちは、初芝です。白樺先輩から聞いてますよ」
「新田です、よろしくお願いします。お時間頂いて、ありがとうございます」
初芝は汗を拭いながら一旦立ち上がると、尻の半分ぐらいのサイズしかない丸椅子に腰かけた。エアコンが轟音を鳴らしながら冷気を送り始め、初芝は店も自分の体の一部であるように、気まずそうに笑った。
「ボロでね。替えたら配管まで全部や言われて。そんな殺生な話あります?」
おそらく、二十一年前から変わっていないのだろう。新田は言った。
「大きな店やと、何でも高いでしょうね。でも、昔に比べたら治安は良くなったというか、不良とか減ったんじゃないですか?」
「減った。減りましたね。僕が中学生のころは、ほんまに近寄れんかった。あの白樺先輩も、何をしでかすか分からんから、怖がられてました。今回も、さっきいきなり電話鳴った思ったら、白樺や。何でも答えたれと。話すん、十五年ぶりぐらいですよ」
初芝は早口で言い終わると、消費したカロリーを確かめるように、額の汗を拭った。新田は言った。
「ありがとうございます。二十一年前、ここで麻薬を売ってる人がおったっていう、噂がありまして」
「いましたね。親父は怒ってました。たまに元締めみたいなんが外車で来よるんです。アメリカのタクシーみたいな黄色で」
黄色のカプリス。頭のスイッチが切り替わった気がした新田は、言った。
「運転してた人、間近で見たことありますか?」
「血があかんから、赤チン言われてましたね。親父が怒って、一旦は引いたんですが、手下のぼさぼさ頭がまた来るようになって。親父!」
初芝は突然大声を出した。奥から、初芝をひと回り小さくして、空気を少しだけ抜いたような風体の父親が現れた。
「ブンヤさんか。記事にするようなネタかいな」
初芝の父は、息子と全く同じ手順で丸椅子に腰かけ、その不快な食い込み具合に顔をしかめた。
「上手い客の集中力を削いで、回転を早くするための、敢えて小さい椅子です。で、二十一年前って?」
「当時、黄色いカプリス……、いや、外車で麻薬を売りに来てる人がいたと思うんです」
「それは赤谷や。ジム潰して、金融詐欺で捕まって、ロクなもんちゃうぞあいつは」
繋がった。赤谷は、指だけになって側溝に流れ着いた。新田がメモを取ろうとすると、初芝の父は大きく深呼吸して、一瞬だけ息子と同サイズに膨らんだ。
「手下もおったな。俺の一番嫌いな、ガキに声かけるタイプや。それだけは許せん」
「ぼさぼさ頭の、大柄な男ですか?」
新田が言うと、初芝親子は同時にうなずいた。初芝の父が言った。
「白樺んとこの長男おるやろ。あいつに声をかけとったわ。ちょうど俺もおったからな。箒でしばいたった。まあ、白樺の家もたいがいやが」
圭人は、予防線を張るために、先に言ったのだろうか。可奈が養子だということは、初芝の父の口から当時の記憶の一部として、今から語られるのだろうか。新田が身構えると、初芝の父は全く違うことを話し始めた。
「あいつは、何か持って行きよる」
「どういう意味ですか?」
「景品とか備品とか、そういうのや。当時子供やった奴のことを、悪く言いたくはないけどな……。手癖が悪いというか、一回、店で暴れた時やったかな」
新田がメモ帳から顔を上げると、初芝が代わりに言った。
「俺の連れがカツアゲされて、白樺先輩がそれを見つけて、ボコボコにしたんです。二人おったんですけど、そいつらの家の前にうちの看板の電球が置いてあったらしくて。返しにきよったんですが、どうもそれを盗って二人の家に置いたのが、白樺先輩っぽいんです」
「高砂整骨院あるやろ、あっこも同じ頃に、骨の字を盗られた言うて、嘆いとったわ」
圭人の悪癖。ということは、『捕まえるぞ』と言ったクラウンの助手席の男は、本当に警察だったのかもしれない。どちらにせよ、カプリスの運転手が赤谷だったということは、これではっきりと分かった。消えた売人のひとりだということも。新田はしばらく世間話を続けた後、礼を言って店から出た。『新田/永井ノート』に触れたいが、そのためには、永井に電話しなければならない。片っ端から、あの事件にまつわる記事を集めたはずだ。野次馬が遺した写真もあれば、警察の撮った現場写真もある。しばらく本屋の前を行き来しながら迷っていた新田は、スマートフォンを取り出した。永井の携帯電話を鳴らすと、何回か発信音が鳴った後に、ノイズと間違えそうな懐かしいガラガラ声が響いた。
「おう」
「永井、久しぶり。ちょっと、ノートを見たい」
しばらく沈黙が流れた。無理もない。そんなことを言うような人間だとは、思われていなかったはずだ。
「あんなでかいファイル、持ち出せん」
永井の答えも、新田の予想から外れていた。そもそも、鼻で笑われて終わると思っていた。持ち出せたら、見せてくれるということだろうか。
「二十一年前、売人の死体遺棄事件」