Ivy
岡崎が言うと、男は笑いながら先に階段を上がり、店に入った。コニーフランシスのマラグエナが小さな音量で流れる薄暗い店内には、バーテンダーがひとりいて、男と会釈を交わした。カウンターに座る先客がひとりいたが、常連らしく慣れた手つきで新聞を読んでいて、顔を上げようともしなかった。元自衛隊員の男は、低い声で呟くようにホワイトロシアンと言い、岡崎はポーラーショットカットを注文した。それとなく店内を見回し、自分が座っている椅子から常連の男まで、三席空いていることを意識した。ザンバラは、ちょうど真ん中に座ろうとするだろう。紹介客がいるでもなく、ふらりと初めて入ったバーで、何を頼むだろうか。そもそも、ふらりと入れるような位置にはない。
乾杯を終えてしばらく話していると、二人のグラスの中身が半分ぐらいになった辺りで、ドアに引っかけられた鈴が鳴った。バーテンダーと同時に、岡崎はドアの方向を向いた。ザンバラは腕時計を見ながら小さく頭を下げて、岡崎が予測した通りの席に座った。常連らしき男が新聞は迷惑だと思ったのか、小さく畳んで脇に置いた。ザンバラは小さく頭を下げて常連の男に気を遣うと、ずらりと並ぶボトルを眺めて、言った。
「カティサークを、ショットでもらえますか」
バーテンダーがうなずき、目の前に綺麗に洗われた灰皿を置いた。まだ煙草を取り出していなかったザンバラは笑って、バーテンダーに言った。
「匂いで分かりますか?」
バーテンダーは、微かに口角を上げてうなずくと、少し奥まった位置にあるボトルを取り出した。
「昔は高かった」
常連の男が、自分が若かったころのことを懐かしむように言った。ショートホープの箱を取り出したザンバラがライターを探っていると、男は自分の煙草に火をつけるのに使っているらしい、マッチ箱を手に持った。
「煙草に火をつけるのに、マッチですか?」
ザンバラが言うと、男は苦笑いしながら一本を擦った。その火をもらったザンバラが礼を言って、煙を吐き出すのと同時に、男は言った。
「一本のマッチが、一本の煙草に火をつける。一対一です」
隣で、元自衛隊員の男がバーテンダーに言った。
「ごちそうさま。出ますわ」
岡崎は慌てて、男の顔を覗き込んだ。
「もう行くの?」
「ゆっくり話したいやん。ちょっと別の場所見つけるから、付き合って」
機械仕掛けの、精緻な笑顔。岡崎は背筋がさっと冷えるのを感じたが、断るだけの理由を見つけられず、一緒に店から出た。ザンバラはそれを見送って、ドアが閉まったときにまた鈴が鳴ったのと同時に、言った。
「慌ただしいですね」
常連の男はうなずくと、まだ細く煙を上げているマッチを自分の灰皿に投げ込んだ。
「村岡は、見どころのある男なんですが。人間、悪い癖は必ずあるもんでね。彼の場合、女と薬です。まだ二十七ですから、分かる気もしますが」
ザンバラは、息を呑んだ。今までに絶対に名乗らなかった男の名前と年齢を、聞いてしまった。そう思った時、男は水が張られた灰皿に浮かぶマッチを指差した。
「ライターみたいに、手あたり次第火つけられたら、自分が燃え尽きたらしまいな一本の煙草からしたら正直、気が悪いですわな」
四十代半ば、オールバックの髪にはやや白髪が混じっているが、ザンバラを見るその目は素面で、バーにいながら一滴も酒を飲んでいないのは明らかだった。ザンバラが目を見返したとき、男は言った。
「私は、岩村言います」
岩村は、握手を求めるように手を差し出した。ザンバラは形だけ手を握り返すと、岩村が自己紹介を待っているということに気づいて、言った。
「ザンバラって呼ばれてます。頭がぼさぼさなんで」
岩村は、あだ名の由来になったぼさぼさ頭を見て笑った。
「気に入ってますか?」
「坊主にしたら、なんて呼ばれるんかなと思いますね」
ザンバラが言うと、岩村は答えなど考えるまでもないように、笑顔で言った。
「そら、そのままでしょう。第一印象は死んでもついて回るもんです。麻薬の売人は、売人。警察官は、法の番人。そんなもんです」
「法の番人なんですか? そんな風には見えませんけど」
「法の番人ではないですな。そんなお堅い人間が、こんなことやっとったら。それこそ問題でしょう」
ザンバラはしびれを切らせたように、千円札を数枚カウンターに置いて、ショットグラスが目の前に運ばれる前に立ち上がった。
「いや、警察は勘弁ですわ」
岩村は、出口の方へ一度視線を向けると、言った。
「帰ってくると思いますか?」
「何が?」
ザンバラが言うと、岩村は当たり前のことを再確認するように、口をへの字に曲げた。
「村岡は、必ず私のとこへ帰ってきます。彼にはそれをやり切るだけの腕っぷしもあるし、機転もある。でも、連れの女の子はどうなんでしょう」
「殺す気か?」
ザンバラが言うと、岩村は笑いながら首を横に振った。
「まあ、座りなさいよ。そこまで飛躍するぐらい危ない橋渡っとるんなら、ひやひやもんでしょうが」
岩村は、一組だけ用意されているテーブル席を目で指した。ザンバラは、ぽつんと置かれたショットグラスを手に取ると、バーテンダーが千円札を一枚返したのを財布にしまい、臙脂色のソファに腰を下ろした。岩村は新聞を席に投げてから、対面に座った。
「飲まないんですか?」
ザンバラが言うと、岩村は首を横に振った。
「普段は飲むんですが。酔うたら、いらんことまでペラペラしゃべってまいそうでね。今は素面なんで、単刀直入に言います。村岡をここに泳がしたんは、何が目的です?」
村岡がうちの麻薬を薄めて捌いているという、赤谷が作り上げた話。殺し屋を逆輸入しているという、外国人犯罪対策班の深川の話。どちらも足を乗せただけで真っ白に変わるような、薄い氷だ。そして、迷っている時間もない。ザンバラが黙っていると、岩村はバーテンダーに言った。
「長くなりそうなんで、何か作ってもらえますか」
バーテンダーは、ドランブイとブルーキュラソーのボトルを棚から引き抜くと、エメラルドミストを作って、岩村の前に置いた。
「えらい凝ったもんを、どうも」
ザンバラは、岩村がグラスを持ち上げる直前で言った。
「外地に送り込んで訓練した日本人の殺し屋を、逆輸入する」
岩村は、グラスを置いた。ザンバラは、自分の直感が正しいことを証明できるまで、これからどれだけ時間を要するのだろうと、店内に視線を走らせた。バーテンダーが、その『殺し屋』の可能性だってある。自分は、マドラーを耳に突き刺されて殺されるのかもしれない。しかし、完全な作り話と分かっている『転売』の線は、どの道行き止まりだ。ひとつでも深く追及されれば、その先には嘘以外存在しない。
「物知りですな、ザンバラさん」
岩村は仕切り直すようにグラスを持ち上げてひと口飲むと、思っていた味と全く違ったように、顔をしかめた。
「私は、警官でした。何年か前の話になりますが。あれだけ大所帯やとね、どっかの歯車を動かそうとしたら、それがどんなに小さくても、他に損をする人間が出てくる」
酒を飲んだということは、岩村は『ペラペラとしゃべる』つもりなのかもしれない。ザンバラがそう思ったとき、岩村はザンバラの髪型を見ながら言った。