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寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜

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 身の丈こそムミョンの方がテスよりあるけれど、横幅は大男のテスよりムミョンの方がはるかに細い。もちろん、細いといっても線が細いというのではなく、引き締まった逞しい体躯をしている。
 セリョンはムミョンが負けるのではないかと心配したものの、杞憂に終わった。テスは壁に叩きつけられたところ、起き上がってムミョンに飛びかかった。ムミョンはテスを余裕で交わし、テスはムミョンに指一本触れもせず、勢い余ってまた向こうの壁に激突、衝撃で大の字になって倒れた。
「口ほどにもないヤツめ」
 ムミョンは呟き、セリョンに声を掛けた。
「大丈夫か?」
 普段はぶっきらぼうとさえいえる彼の声音には、確かに気遣わしげな響きがある。セリョンは堪らず、ムミョンの胸に飛び込んで泣いた。
 号泣するセリョンをムミョンはひたすら愕いたように見ている。やがて、彼の手が宙に伸ばされ、躊躇いがちにセリョンの背中に回った。
「本当に大丈夫か? あいつに何もされなかったんだな」
 念を押すように問われ、セリョンは涙を拭い頷いた。目尻に涙の滴を宿したセリョンを、ムミョンはどこか眩しげに見つめる。
「ええ、何もされていないわ。助けてくれて、ありがとう」
 ムミョンの手はいまだセリョンの背中に回されたままだ。彼の片手がゆっくりと持ち上がり、セリョンの髪を撫でた。まるでセリョンの無事を確かめるように、優しい手つきで幾度も撫でる。
 どうやら、ムミョン自身、意識しての仕草ではなかったようで、自分のしていることに気づいた彼は慌てて手を引っ込めようとする。
 ―彼の手に撫でられた箇所が熱い。セリョンも幾分落ち着きを取り戻した今、ムミョンが自分の髪を撫でているという現実をはっきりと認識していた。
 と、コホンと咳払いが聞こえ、それを合図とするかのように、紅くなった二人は慌てて離れる。
「セリョン、こんなところをお母さんが見たら、大変よ」
 華やかな雰囲気を纏うファオルが入ってくる。この翠翠楼の稼ぎ頭の妓生はいつも凛然と咲き誇る花のような風情がある。その癖、誰よりも情に厚く、下手に気弱な男より男気がある姐御肌だ。
 ファオルはセリョンの側に来て耳打ちした。
「セリョンもムミョンがこの廓にいられなくなったら、困るでしょう?」
 セリョンは返す言葉もなかった。廓では男衆と呼ばれる用心棒と見世の女の恋はこれも禁忌だ。セリョンは妓生ではないけれど、女将の娘なのだから、尚更かもしれない。
 女将は恐らく、セリョンがムミョンと必要以上に親しくなるのを歓びはすまい。むしろ、逆だろう。女将自身からも、ムミョンに深入りするなとはっきりと釘を刺されている。もし大切な娘が得体の知れない用心棒と抱き合っていたなんて知れば、ムミョンを即刻たたき出すかもしれない。
 ファオルは心得顔でセリョンに頷いて見せた。
「ここは私に任せて。セリョンはここから出て、何もなかったような貌をしていれば良い」
 ファオルはムミョンにも鋭い一瞥をくれた。
「私が今、セリョンに言ったことを忘れないでね。お母さんはセリョンの幸せだけを願っているの。セリョンを傷つけようとする者はたとえ何者であろうとお母さんは許さないわよ」
 ムミョンはファオルをチラリと見ただけで、特に何も言わず出ていった。
 ファオルは溜息混じりにセリョンを見る。
「確かに良い男ね。私のような玄人でさえ、うかうかしていたら、魂を持っていかれてしまいそう。でも、良いこと、セリョン。初心(うぶ)なあんたには、ああいう手合いの翳のある男は余計に格好良く見えるかもしれないけど、絶対に深みにはまっちゃ駄目。一度はまりこんだら最後、奈落の底にまで引きずり込まれて二度と浮かび上がってこられなくなっちまうからね」
 セリョンはぼんやりとファオルの言葉を聞いていた。奇しくも、大好きな姐さんの言うことは、昨日、キョンボクがセリョンに告げたのと同じだった。
―得体の知れないあの男に拘わるな。
 キョンボクも真摯な瞳で言ったのだ。
 何故、ファオルもキョンボクもが同じことを言うのか。ムミョンはそんなに危険な男なのだろうか。
 彼の夜空を映したような瞳に深い孤独と翳りがあるのは、セリョンにも判ったけれど、邪悪なものは一切感じられない。よく晴れた冬の星空のように澄んだ眼をしている。彼が皆の警戒するような危険な人物だとはセリョンにはどうしても思えないのだった。
 想いに沈むセリョンの耳に、ファオルの明るい声が聞こえてきた。
「まぁ、パク家の若さま、随分と長い厠でしたのね。王さまのお住まいになる宮殿の厠までお行きになっちまったのかと思いましたわよ」
 見れば、ファオルがチマの裾が乱れるのも頓着せず、片脚を振り上げてテスを蹴っている。テスは相変わらず床に伸びたままだ。
 ファオルはセリョンを見て片眼を瞑り、肩を竦めた。
「本当にいけ好かないヤツね。たとえ商売でも、相手にしたくはない男だわ」
 ファオルがこの室での出来事をどれだけ知っているのかは判らないが、妓生としての経験も長い彼女であれば、室に入ってきたときの二人の雰囲気から、大方は察しているのだろう。彼女は言いながら、脚でテスをしきりに突(つつ)いている。
「若さま〜ァ、そろそろ起きて下さいな。若さまがおられないとファオルは淋しくて、死んでしまいそうですわ〜」
 口調だけは、いつものように鈴を転がすような愛らしい声音なのが余計に女の怖さを物語っている。セリョンは先刻、テスに襲われ掛けた恐怖も忘れ、つい笑ってしまった。

 同じ日の夕刻。
 翠翠楼では女将を初め、使用人は夕食を早めに取る。むろん、忙しい時間帯、宵から深夜に備えてである。その日、キョンボクが厨房の続き間に入った時、先客がいた。妓生は別として、下働きはそこで食事を取るのだ。何時と決まっているわけではなく、それぞれ手が空いたときに来て食べる。
―嫌な野郎に当たっちまったぜ。
 内心は思ったが、表に露骨に出すほど大人げないつもりはない。なので、大勢が一度に食べられる広い卓の片隅に陣取り、できるだけムミョンには近づかないようにした。
 ムミョンの方もキョンボクなぞ眼中に入らない様子で、飯をかき込んでいる。
 ムミョンが食べ終わり、立ち上がった。そのまま振り向きもせす出てゆこうとする背中に、キョンボクは呼びかけた。
「おい」
 流石に無視はできないと思ったのか、ムミョンが振り返る。悔しいが、男の自分が見てもムミョンは美男子だ。セリョンばかりか妓生たちまでもがこの男に熱を上げるのも無理はない。
「何か?」
 ムミョンが真っすぐ見つめてくる。何の感情も読めないその眼(まなこ)は、キョンボクには気取っているようにも見える。
 チッ、透かした野郎め。格好付けやがって。キョンボクは心で舌打ちし、敵意に満ちた視線を相手に向けた。
 フッと、ムミョンが吐息だけで笑った。刹那、カッとキョンボクの中で怒りが湧いた。
「手前、俺を馬鹿にしているのか!」
「いや」
 ムミョンはきっぱりと言い、心もち強い眼でキョンボクを見つめ返した。
「悪気はなかった。気に障ったなら、謝る」