寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜
確かに話としては、またとない玉の輿には違いない。妓房を切り盛りする元妓生上がりの女将の娘が上流両班に嫁ぐなんて、滅多にある話ではない。ただ、そこにセリョン当人の意思がまったく考慮されていないのが大きな問題点ではあった。
頭の巡りの悪い男にしては、よく考えたものだ。確かに名門両班の嫡子の正室という立場なら、女将も即座に突っぱねはしないだろう。
セリョンはそれでも愛想良く言った。
「若さまが私のためにそこまで考えて下ったのは、ありがたいことです。ただ」
「ただ? ん? 何だ」
男が更に顔を近づけ酒臭い息を吹きかけてきたので、セリョンは知らず後ずさり、のけぞった。
―私は、あんたの嫁になんかなりたくないのよ。っていうか、未来永劫、お断り。
人間には我慢できる範囲というものがある。まだしもテスが手を握られるくらいは許せる相手なら、考慮の余地もあったろう。しかし、断っておくが、セリョンはパク・テスという男が大嫌いであり、顔を見るのもいやだった。
が、本音をそのまま口にするのもはばかられる。自分のひと言で翠翠楼が上客を一人失うかどうかの瀬戸際なのだ。
この場合、嘘をつくのを躊躇うよりは相手の心証を害さないように断る方を優先するべきだ。セリョンは咄嗟に判断する。
「若さま、私には好きな方がおります」
それらしく見せるため、両手を胸の前に組んで一途な眼でテスを見つめる。けれども、その瞳に浮かぶ懸命な色が余計に男の心と独占欲を煽るとは生憎とセリョンは知らなかった。
瞬時にテスの顔色が変わった。
「なに? 惚れた男がいるだと」
その応えは想定外だったらしく、テスは唸った。
「一体、そいつはどこの誰だ?」
テスが見るからに不機嫌な様子で問うのに、セリョンは言葉に窮した。当然だ、そんな男はどこにもいはしないのだから。
が。セリョンの瞼にはその時、確かに一人の男の顔が浮かんだ。それは、翠翠楼の新たな居候となったあの謎の男、ムミョンであった。
漆黒の夜空のような黒くて深い瞳、滅多に見かけないほど整った貌、そして黒い眼帯の下に隠された蒼い瞳。
何故、?好きな男?と言われて、あの男の貌が浮かんだのか、セリョンにも判らない。
まさか、ムミョンの名を出すわけにもゆかず、セリョンは口をつぐんだままテスを見つめた。
テスが声で低めた。
「そなたの惚れた男がどこのどいつかは知らんが、パク家の跡取りたる俺の嫁になる方がよほど身のためというものだ。そなたが俺の妻になれば、もう酔客のために膳を運ぶ必要もない。絹の衣服を纏い、美しい宝玉で身を飾り、毎日好きなことをして暮らせるぞ」
人は贅沢ができるから、幸せだとは限らない。現に大枚をはたいて廓遊びばかりをしていても、テスは少しも幸せそうではない。心が満たされないから、こうやって廓通いを続けて遊興に耽るのだ。そのことに、この男は何故、気づかないのだろう?
セリョンは微笑んだ。
「私は贅沢な暮らしがしたいとは思いませんので」
一礼して通り過ぎようとしたところ、手首を掴まれた。
「待て」
あまりに強い力で掴まれたため、捧げ持っていた小卓を落としそうになる。
「何をなさいます」
セリョンは瞳に力を込めてテスを見た。
「そなたの男というのは誰だ!」
詰め寄られ、ますます強い力で手を握られる。セリョンは痛みに耐えかね、とうとう小卓を手放してしまう。
鋭い音がして、廊下に転がった幾つかの器が割れた。テスはそんなことにはお構いない。セリョンの手を握りしめたまま、熱っぽくかき口説く。
「悪いことは言わないから、俺の女になれ。俺の父は色町の妓房の一つや二つくらい潰すことはできる立場にあるんだぞ」
幾ら戸曹判書が息子を溺愛しているからといって、何の理由もなしに翠翠楼を潰すとは思えなかったが―、それでも、テスの脅しはセリョンを追い詰めるには十分だった。
「そんな酷い」
流石に勝ち気なセリョンも涙が滲んだ。
「俺だって、愛しいそなたにこんなことは言いたくない。さりとて、そなたを手に入れるためには、こうでも言わねばならんだろう」
何を思ったか、テスはセリョンの手を掴み、廊下を歩き出した。
「どうでも俺の意に従わないというなら、今ここで、そなたを俺のものにしてやる。そなたも俺に一度抱かれてしまえば、観念して素直に嫁になると言うに違いない」
「―っ」
セリョンは蒼白になった。冗談ではない。母は今までセリョンを妓生にもせず、大切に育ててくれた。それはひとえに娘にはまっとうな恋をして、幸せになって欲しいと願ってのことだったのだ。こんなところで卑劣漢に手籠めにされて、泣く泣くそんな男の妻になるなんて、とんでもない。
だが、テスは物凄い力でセリョンを引きずってゆく。渾身の力で踏ん張ってみても、武官であるテスと非力なセリョンとでは力で適うはずもない。
テスがおもむろに眼前の扉を開けた。そこは使われていない室である。テスに思いきり突き飛ばされ、セリョンは室の床に転がった。
「若さま、こんなことがお父君の耳に入れば、お父君が嘆かれますよ」
セリョンはテスを止めようと必死になるも、一度昂ぶった男は止めようがない。
「何とでも言え。俺はセリョン、二年前、そなたを初めて見たときからずっと欲しいと思っていた。今ここで諦められるはずがない」
「若さまにはファオル姐さんがいるじゃありませんか。廓ではたとえ妓生と客といえども、一人の男と女として互いに誠を尽くすというのが暗黙の掟です」
「フン、ファオルか、確かに美しい女だが、所詮、そなたには及ばん。ファオルが野の花なら、そなたは後宮―王の花園で咲き誇っても遜色がない大輪の花よ」
あれだけファオルに夢中になっておきながら、よくもぬけぬけと言うものだ。内心で呆れたが、悠長にそんなことを言っている場合ではない。このままでは力でねじ伏せられ、本当にこの男に意のままにされてしまう。
もし、そうなれば母は世間体も考えて、意に添わずともセリョンをこの男の妻にという話を承諾してしまうかもしれない。
床に倒れたセリョンが身を起こすよりも早く、男がのしかかってくる。流石は色事には長けているだけあって、こういうことは手慣れているようだ。
どれほど暴れても無駄だった。テスは無駄に屈強な身体でセリョンの抵抗を易々と封じ込めた。男の熱い唇がうなじに当たり、セリョンは泣きそうになった。
―誰か、助けて!
このときも不思議なことに、真っ先に浮かんだのはあの男、ムミョンだった。
ああ、自分はこのまま好色なパク・テスに組み敷かれ、嫌々嫁いでゆく羽目になるのか。セリョンの胸を空しさと諦めが支配しようとした時。
荒々しい足音と共に扉が開いた。
「貴様、何をしている!」
聞き覚えのある声は、たった今、セリョンが瞼に思い描いた男のものだ。
「ムミョン―」
セリョンが涙声で呟くのに、ムミョンがハッとした。涙に濡れたセリョンの貌を見た彼の面が強ばった。ムミョンの拳がテスの頬に炸裂し、テスの身体が後方に吹っ飛んだ。テスはけして脆弱ではない。むしろ武官として勤務しているので、腕には自信がある方だ。
作品名:寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜 作家名:東 めぐみ