寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜
地面には深紅の椿が無数に散り落ちて、まるで鮮血の色に染め上げられかのようになった。首を落とされた罪人のようにも、その流した血のようにも見える椿で埋め尽くされた地面を、ムミョンは感情の読み取れぬ瞳で見下ろしている。
やがて、彼は己れが作った無残な光景から逃れるかのごとく、急ぎ足でその場を去った。
翌日の昼下がり、セリョンは二階の廊下を一人、ぶつくさ言いながら歩いていた。
「本当に人使いが荒いったら、ありゃしないんだから、もう」
妓房が賑わうのは大概は宵の口以降と相場が決まっている。こんなお天道さまがまだ頭上に輝いている刻限にはやほろ酔い機嫌で、どんちゃん騒ぎをしているのはよほどのお大尽か、放蕩者しかいない。まともな男なら、額に汗して働いている時間帯ではないか。
今、翠翠楼の二階は一人の客が貸し切り中である。その客というのがどっぷりと肥えた老年の隠居だというなら、まだ話も判るが、あろうことか、まだ二十代前半の若者だというのだから、もう世も末の感がある。
客の相手をしているのは、この廓では一番の稼ぎ頭華月(ファオル)だ。ファオルは今年、二十一歳、大輪の牡丹のような艶やかな色香溢れる美貌とそれに恥じない才知・教養を備えた、まさに名妓と呼ばれるにふさわしい妓生である。
客のパク・テスは、美しいファオルにすっかり入れ上げている。このパク・テスという男、朝廷で今をときめく戸曹判書パク・テギルの一人息子だ。テギルには長らく子ができず、やっと愛妾との間に生まれたのがこのテスだった。テギルはテスを生後すぐに自邸に引き取り、本妻の子として育てさせた。
テギルその人は権力欲と多少の野心はあるものの、悪い人ではない。政治家ともなれば、大なり小なり出世欲があるのは当たり前だ。
だが、この跡取り息子は何としても頂けなかった。何しろ、二十年近く子宝に恵まれなかったテギルは、テスを甘やかせるだけ甘やかして育てた。息子が天上の月が欲しいと駄々をこねれば、月まで飛んでゆきそうなほどの溺愛ぶりだったのだ。
結果、テスは手が付けられないほどの我が儘で、鼻持ちならない大人になった。翠翠楼でも、この若さまは妓生たちに嫌われている。もちろん、頻繁に登楼し、気前よく金をばらまいていってくれるから、皆、表立っては愛想が良い。が、本来、廓には廓内でのご法度というか仁義がある。
たとえ妓生と客、一夜のかりそめの関係とはいえ、夫婦の契りを結ぶのであれば、敵娼がいながら他の妓生に手を付けるのは無粋の極みとされる。しかしながら、この男、翠翠楼の筆頭であるファオルを敵娼にしておきながら、平気で他の妓生にも色目を使おうとする。もちろん、ファオルをはばかり、テスに靡こうとする妓生はいないが、中には先輩に取って代わろうという野心を持つ妓生もいないわけではない。
このパク・テス、実は敵娼のファオルよりご執心の女がいる。といっても、その女は妓生ではない。
セリョンは盛大な溜息をついた。
「ああ、いやだいやだ。まだ二十四そこいらで助平爺ィのようにたくさんの女を侍らせてニヤけてるなんて、最低」
そう、パク・テスが意中の女というのが他ならぬセリョンなのだ。テスはどれだけの大金を積んでも良いから、セリョンを水揚げさせて欲しいと翠翠楼の女将に以前からしつこく頼んでいる。むろん、女将が承知するはずもなく、この迷惑な客が来たときは、心得たファオルがいつもテスの相手をしてセリョンはテスの前に出なくて済むようにしてくれた。
ファオルは美しいだけではない、気働きもできるし、後輩たちを気遣う優しい姐女郎でもある。セリョンは五つ上のファオルに同じ女として憧れ、姉のように慕っていた。
ファオルほどの良い女は、パク・テスのような男にはまったくもって勿体ない。
数日前にも登楼したばかりだというのに、今日もまた昼前からやって来て二階を貸し切り、飲めや歌えやの乱痴気騒ぎに明け暮れている。見世にとっては気前よく大枚を落としていってくれる大切な得意であることに間違いはないのだが、セリョンはこの男が来たと聞く度に、何故か嫌な気分になるのだった。
パク・テスは気随気ままで、他人のことなんぞ歯牙にもかけない。酒がないと階下から運ばせて、またたきするほどの間にまた摘みの追加を平然と言いつけるような厚かましさだ。
今日だって、セリョンはあの無神経な男の言いつけで、階下と二階をもう何度往復したか知れない。つい今し方、酒のお代わりを運んだと思えば、階下に戻るか戻らない中に酒肴が足りないから持ってこいと来た!
セリョンは憤りながら酒肴を乗せた小卓を持ち、廊下を進んでいった。と、あり得ない人物が背後から声をかけてくる。
「セリョン」
しまったと、臍を噛んでも遅い。
「セリョン」
その男は足音を踏みならすようにして走り、彼女の側にやってきた。セリョンは観念して回れ右をする。やはり、彼女に声をかけてきたのはパク・テスだった。
「まあ、若さま(トルニム)。今日はようこそ翠翠楼へお越し下さいました」
セリョンは丁重に腰を折った。テスははや惚けたようにセリョンを見つめている。
「随分と顔を見なかったが、元気にしていたか?」
「お陰さまで」
テスがズイと身を乗り出し近づいてきたため、セリョンは嫌悪感に膚が総毛だった。
「女将には例の話を何度も持ちかけているのだが、いつも体よくあしらわれている。今日は丁度良かった、そなたの気持ちを直接聞かせてくれ」
「私の、気持ちですか?」
男が何を言おうとしているのかは判った。例の水揚げの件だろう。いけ好かない客ではあるが、この見世の上客である。迂闊な返事で怒らせてもまずい。セリョンの頭は目まぐるしく回転する。
顔に愛想笑いを張り付かせ、セリョンは控えめに言う。
「若さまのお申し出はありがたいのですが、私は妓生ではありませんので」
この場合、一番妥当な断り方だと思ったのだが。相手はそんなことで諦めるような男ではなかった。
テスは大真面目な顔で言った。
「そんなことは俺も知っている。水揚げという言葉が気に入らぬなら、そなたを正式に屋敷に迎えると言えば良いのか、セリョン」
「あの、それはどういう―」
セリョンは首を傾げた。屋敷に迎えるというなら、愛人として囲うということだろうか。
テスは首を振った。
「そなたを欲しいと女将に何度懇願しても、すげなく拒絶されるばかりだ。流石の俺も考えた。女将は一体、何を望んでいるのか。確かに母一人子一人、そなたは女将にとっては可愛い娘だ。妓生の娘は妓生になるのが当たり前なのに、そなたを見世に出すこともない。ゆえに、そなたを手に入れるためには、愛人や側室といった立場で迎えたのでは女将は承知しないだろう、正室として迎えなければならないのではないかと漸く気づいたのだ」
セリョンは滔々とまくしたてる男を茫然と見つめた。
「なっ、悪い話ではなかろう? 俺はいずれ父上の跡を継いでパク氏の当主になる。朝廷でもそれなりに出世はできるだろう。その奥方になれるというのだから、そなたや女将にとっても願ってもない話なのではないか」
作品名:寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜 作家名:東 めぐみ