小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜

INDEX|4ページ/27ページ|

次のページ前のページ
 

 ホ・ソンの言葉を改めて思い出し、セリョンは不安になった。医者の予言が今、不吉な予感を伴って迫りつつあった。
 男が氏素性を知れたくない理由と医者の不穏な予言は見事なまでに符合する。翠翠楼と並々ならぬ拘わりのあるあの医者は、ムミョンが目覚めたと知れば、すぐにでも追い出しにかかるに違いない。
 セリョンは空になった小鍋と器を小卓に乗せ、物想いに耽りながら階下に降りた。
 女将の仕事部屋は一階、見世の入り口近くにある。まずは厨房に行って鍋や器を下働きの女中に託し、女将の部屋にとって返した。
「お母さん、セリョンです。入っても良いですか?」
 母と娘として対するときはここまで丁寧な物言いはしない。が、廓内ではあくまでも女将と一使用人の立場を守り、丁寧な態度を心がける。それはセリョンが幼い頃から変わりない。
「ああ、良いよ」
 返事がして、セリョンは両開きの戸を開けた。小さな屏風を背に女将は文机に向かっていた。見世の帳簿らしきものに眼を通している最中のようである。
 セリョンは文机を挟んで、女将の向かいに座った。ウォルヒャンはややあって、おもむろに視線を上げた。
「何か用かえ?」
「二階のあの人、行き倒れが目覚めました」
「それで?」
 セリョンはチマの上で組んだ手に無意識に力を込めた。
「あの男を追い出すの?」
 つい、口調が母に対するものになっていることにも気づかない。
 女将は人差し指でトントンと机を叩いた。
「ソンからは、そう言われているよ」
「それは判っているわ。でも、まだ怪我も完全に癒えてはいないのに」
 女将は意味ありげな眼でセリョンを見ている。
「この都でもそうそう見かけないような美男子だね、あの男」
「おっかさん」
 何を暢気なことをと言いかけたセリョンに、女将は語気も鋭く言った。
「若い娘が綺麗な男にのぼせ上がるのはままあることだ。だが、お前は廓で育った子だ、得体の知れない男に惚れちまうことがどれだけ危険かは判るだろう? ソンに言われなくても、あの若い男が何かもめ事に巻き込まれているだろうくらいは、あたしにも判るさ。これでも、だてに妓房の女将を二十年近くやってきたわけじゃないんだからね」
「―」
 言葉もないセリョンに、女将が引導を渡すように言った。
「良いかい、何があっても、あの男に深入りするんじゃないよ」
 セリョンは黙り込む。そんな彼女に、女将の深い声音が届いた。
「セリョン、あたしはお前を実の娘だと思って育ててきた。お前を妓生にもしなかったのも、すべてはお前のため、お前には人並みに嫁いで女として幸せになって欲しいからだよ。おっかさんのこの気持ちをどうか判っておくれでないか」
 セリョンはうつむき、唇を噛みしめた。十六年前の朝、翠翠楼の前に捨てられていた赤児だったセリョンを拾って大切に育ててくれた、それが今の母ウォルヒャンだ。
 母にはどれだけ感謝したとしても足りない恩義がある。また、得体の知れぬ男を早く追い出すべきだという母の言葉も理解はできた。けれども、分別では理解できても、心では納得できない。
 セリョンは弾かれたように顔を上げ、母を真っすぐに見つめる。
「おっかさん、お願い。一生に一度だけ、私のお願いをきいて」
 息が詰まるような沈黙が流れた。ふと女将が低く笑った。
「まったく、お前は幾つになっても変わらないねぇ」
 女将のセリョンに向けられた眼が細められ、昔を懐かしむように遠くなった。
「お前ときたら、物心ついた時分から行き場のない犬猫を拾って飼ってくれと泣きついたものだけど、今度は人間かい? その中、龍でも連れてくるかもしれないね」
 セリョンが初めて翠翠楼に捨て猫を連れ帰ったのは、五歳のときだ。大きな眼に涙をためて
―おっかさん、一生の一度のお願いだから、この可哀想な子猫をうちで飼わせて。
 懇願するいじらしい様子に根負けして、女将は猫を飼うことを許してやった。以来、セリョンの?一生に一度のお願い?を何度呑むことになったやら。
 あるときは犬だったり、あるときは猫だったりとセリョンが道端に捨てられていた小動物を憐れんで連れ帰ったのは、実はもう数え切れないほどだ。
 客商売のため、大っぴらに犬猫は飼えないので、裏の方で纏めて面倒を見ているが、その数、ゆうに猫三匹、犬二匹である。犬は番犬にもなり、妓房は何かと不用心だったり、騒ぎが起こる場所だから、役に立つこともあるにはある。いつだったか、敵娼をあい争って喧嘩を始めた客二人に犬をけしかけて、止めたこともあった。
 もちろん、その五匹だけではない。セリョンが連れ帰った犬猫をそのまま全部飼っていたら、翠翠楼は抱える妓生の数より飼犬猫の方が多くなっていただろう。そんなにたくさんは飼えないため、飼えない動物たちはそれぞれ客の間でつてを頼ったりして、適当なところに里子に出したのだ。
 女将はセリョンがこの?一生に一度のお願い?を口にする度、しかめ面をしてみせるものの、実のところ、愛娘のか弱い動物を見放せない性分を殊の外、人として大切なものだと思っていた。
 女将の心中も知らず、セリョンはまだあどけなくさえ見える笑みを美しい面にひろげる。女将はセリョンの身許を知らない。十六年前の春の朝、セリョンは翠翠楼の前におくるみ一つで捨てられていた。
 名前や身許を証すようなものは何もなく、ただ、赤児がくるまれていたおくるみは上絹で仕立ても良かった。考えられるのは両班に囲われた女が事情があって子を捨てたとか、そんなところだ。セリョンが着ていた産着も上等で、庶民の子とは考えにくかった。どこぞの女好きの両班の庶子という可能性が高かった。
 遊廓の前に女の子の赤児を捨てるなぞ、一体どんな薄情な親かと憤慨したものだ。廓で拾われた子がそこで育って、行く先はどうなるか。遊女になるしか道はないと知って、廓の前に赤児を捨てたのか。
 けれども、考えようによっては、親は何としてでも赤児を生かしてやりたいと願ったとも解釈できた。廓で必要とされるのは男児ではなく女児だ、将来は売り物になるからである。ゆえに廓の前に女の子を捨てて拾われたとしても、育てて貰える可能性はあった。男の子なら、そのまま放置されるか、最悪、ひそかに間引かれることもある。
女将は十代の頃から翠翠楼で妓生として客を取っていた。商いの才覚があるところを先代の女将に見込まれ養女分となり、女将の亡き後は見世を引き継いだ。
 そんな彼女であってみれば、女の生き地獄という苦界については底の底まで知り尽くしている。女将にはかつて一度だけ本気になった男がいた。まだ二十歳にもならない頃の馴染み客だ。都でも指折りの大きな商団の跡取り息子だった。
 やがて女将は妊娠した。しかし、それを知った恋人は無情にも女将の許から去り、親の勧める豪商の娘と結婚した。女将は失意の涙の底から立ち上がり、一人で出産し子どもを育てることを決意するも、運命はどこまでも苛酷だった。難産で産んだ娘は産声を上げることもなく儚くなった。
 セリョンが翠翠楼の前に捨てられていたのは、その七年後だ。先代の死により女将が翠翠楼を背負って一年後のことだった。
 知り合いは口々に言った。