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寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜

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―恐らくは異様人の血を引いておるのであろうよ。
―異様人?
 耳慣れぬ言葉ではあっても、セリョンも意味くらいは知っている。言葉どおり、この国では?異様?とされる風貌を意味しているのだ。黒髪黒目の朝鮮人ではなく、例えば金髪碧眼だったりする西洋人を指すことが多い。
 つまりは、男の両親のどちらかが異様人である可能性が高いらしい。それゆえ、片眼にこのような朝鮮人にはあり得ない蒼い瞳が表れたのであろうというのがソンの見解だ。
 男の左腕の怪我は日ごとに良くなりつつある。セリョンが甲斐甲斐しく薬湯を匙で飲ませ、発熱した身体の汗をこまめに拭き取ったお陰で、腕の傷も化膿することなかった。
 セリョンは妓房の雑用を主に担当している。なかなかの美少女なので、客の中にはセリョンを妓生として見世に出して欲しいと催促する者も少なくはない。けれど、ウォルヒャンはけして、そんな誘いには首を縦に振らない。
―娘は妓生にはしない。あの娘(こ)には良い縁づき先を探して堅気としての人生を歩ませたいんだよ。
 女将の応えは決まっていた。
―妓生の娘は妓生になるのが運命というものだろうに。廓で生まれ育った娘は廓で生涯を過ごすのが幸せというものだ。
 セリョンの美しさに眼をつけた豪商が言った時、女将は真顔で言った。
―あたしが妓生だったからこそ、娘には同じ道は歩ませたくはないんですよ。ほら、?春香伝?の烈女春香だって、妓生の娘ですけど、両班の若さまの正室になって幸せになったじゃありませんか。妓生の宿命がどれだけ哀しいものか、旦那もご存じでしょう。女は好いた男に添うのが一番の幸せ、妓生は一夜に多くの男から男へと渡り歩くあだ花。あたしは可愛い娘には、そんな残酷な運命を与えたくない。 
 そういうわけで、セリョンは妓生の娘でありながら、妓生にはならず、専ら廓内の雑用―食事の支度やら洗濯、掃除などをこなしている。
 セリョンは仕事の合間を抜けては、男の眠っている室に来て甲斐甲斐しく看病を続けた。今も眠り続ける男の顔を見るとはなしに見つめている。
 男が翠翠楼に運び込まれてから、既に三日三晩が経過していた。その間、男は懇々と深い眠りの底をたゆたっている。
―現実で向き合いたくない事態が起きて、目覚めない可能性が高いかのう。
 セリョンにとっては父親のような存在である町医者の言葉がふと甦った。セリョンはまた吐息をはき出し、小さく首を振る。それにしても綺麗な男だと見つめる度に思わずにはいられない。
 今、眼帯は外されている。あの瞳―黒と蒼の不思議な瞳が開いた様を見てみたい。
 その時、男が苦しげに顔を歪め、セリョンは狼狽えた。
 どこか、痛いのだろうか。医者を呼んだ方が良いのかもしれない。立ち上がりかけ、彼女はまたペタンと座り込んだ。
 男が顔を苦痛に歪め、救いを求めるように手を伸ばしたからだ。
「母―上」
 セリョンは咄嗟に男の伸ばした手を取った。
「兄上っ、俺は何も」
 言葉はそこで途切れた。男はなおも苦悶に歪んだ表情をしていたものの、また深い眠りに落ちていったようだった。
 セリョンは男の手を握りしめたまま、茫然と彼の顔を見ていた。秀でた額から通った鼻筋、綺麗な弧を描く眉はほどよく凛々しく、口許は整っている。眼を覚ませば、どれだけ美しいことか。セリョンは妓房で育ったから、大勢の男客を見慣れている。身分があり、男ぶりも良い男たちもたくさんいたけれど、ここまで美しい男は見たことがなかった。
―まるで、仮面芝居の?光の世子さま?のようね。
 埒もないことを思い出し、クスリと笑う。そういえば、四日前、この男を路地裏で見つけたときも、?王宮の陰謀?を見た直後だった。もう一度、あの芝居を見たいと思っていたが、この男が目覚めるまでは安心して芝居見物どころではない。
 セリョン自身も不思議だった。何故、得体も知れぬ、縁もゆかりもないこの男が気になって仕方ないのか。町医者のホ・ソンなどはむしろ、セリョンにも女将にも
―あまり関わり合いにならない方が良い。
 と、忠告しているのだ。要するに、何か厄介事に巻き込まれている男のようだから、拘わりになれば自分らまで巻き込まれるということだ。
 とはいえ、女将としては、意識もない行き倒れをみすみす放り出す真似は人の道にもとるから、できない。ソンは
―ならば、意識を取り戻したら、できるだけ早く追い出すことだ。悪いことは言わん。
 と、診察に来る度に女将に囁いている。
「おっかさん、眼が覚めた途端に追い出したりはしないわよね」
 セリョンは呟き、もう一度、男の整った顔を見ている中に自分もついうとうとと浅い微睡みに誘(いざな)われていった。
 
 セリョンは傾(かし)ぎそうになった身体を慌てて元に戻した。どうやら、眠気に負けて船を漕いでいたようである。
 と、強い視線を感じ、息を呑んだ。床の中から、男が眼を見開いてセリョンをじいっと見上げていた。
―何て綺麗な眼なの。
 こんなときなのに、セリョンは警戒心さえ忘れて男を見返した。男は傍らに置いてあった眼帯を掛けているため、左の眼は見えず、生憎と蒼い美しい瞳は隠れている。
 漆黒の瞳でさえ黒曜石のような燦めきを宿して、これだけ美しいのだ。眼帯を外して、あの蒼い瞳が真っすぐに見つめてきたならら、どれほど綺麗なことか。
 男の瞳は音もなく流れながらも、烈しさを秘めた川のようで、じいっと見つめていると魂ごと奥底まで引きずり込まれてしまいそうなほど蠱惑的だ。
「―飯」
 しかし、綺麗な男が開口一番に口にしたのはおよそ似つかわしくない言葉だった。
 セリョンが階下から運んできた汁飯(クッパ)を男は瞬く間に平らげた。これで行き倒れた挙げ句、三日三晩意識がなかった怪我人だとは信じがたい。それもそのはず、確かにホ・ソンが診たところ、男の腕の傷は順調に回復に向かっていおり、他に悪いところは何もないとのことだ。
 男は汁飯を立て続けに五杯もお代わりし、やっと人心地ついた様子を見せ、セリョンを呆れさせた。
 流石に五杯も食べたら、作った汁飯はすべてなくなった。セリョンは鍋の底をのぞき込んだ。
「まだ欲しいなら、作ってくるけど、少し時間がかかるわ」
 その時、男は初めてセリョンがそこにいたことに気づいたように彼女を見つめた。
「いや、もう十分だ」
 男は予想したとおり、美しかった。男に花のようなという形容はふさわしいかどうかは判らないけれど、透き通る花びらを持つ花のような美男である。眼帯に覆われた片眼は見えないにしても、右の瞳は紛うことなく黒瞳で、切れ長の綺麗な形をしていた。
「あなたの名前は?」
 訊ねれば、男の端正な顔に濃い翳りが落ちる。永遠にも思える沈黙の後、男の唇から吐息のように呟きが落ちた。
「―無名(ムミヨン)」
「ムミョン?」
 咄嗟に、本名なのだろうかと訝しく思った。?ムミョン?とは、いかにも偽名らしい。とはいえ、名を訊ねたときに男が見せた愁い顔を思えば、彼が氏素性について詮索されたくないのは明白だ。
―あの男は間違いなく厄介事に拘わっている。このまま拘わり続けては、そなたらまで巻き込まれてしまうぞ。眼が覚めたら、即刻追い出せ。