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寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜

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 空を見上げたままのセリョンの眼がまたたいた。闇色の夜空には鈍色の厚い雲が幾重にも垂れ込めているのに、雲間には細い月が浮かんでいる。雪が降っているのに雲が見えるのは、滅多に見られない風景だ。
 玻璃細工のようにキラキラと輝く新月に、次第に烈しくなってゆく白い花びらたち。セリョンは得も言われぬ美しい光景にしばし刻を忘れて見蕩れる。
「いけない、月に見惚れている場合じゃないってば」
 慌てて歩き出し、大通りの角を曲がって人気のない路地裏に入ったそのときだった。今度は路傍に自生している紅椿が眼に飛び込んだ。月は相変わらず顔を出し、妖艶な女を思わせる椿を夜陰にひっそりと浮かび上がらせている。
 仮面劇の後には雪と月、花と来れば、今夜はこの上なく風流な巡り合わせと来ているらしい。セリョンが暢気なことを考えていられたのは、そのときまでだった。次の瞬間、彼女はヒィっと悲鳴を上げた。
 数歩先に人が横たわっていた。いや、こんな雪降りの凍えそうな真冬に、人が道端で眠るはずがない。つまりは、そういうことで―。
 セリョンはギュッと眼を閉じ、また開いた。
 願わくば、たった今、自分が見たものは幻であって欲しいと思いつつ、そろそろと視線を動かしてみる。しかし。
 当然ながらと言うべきか、件(くだん)の人間は相変わらず路地に寝転んだままであった。雪降りの夜、凍え死にたい自殺願望のある者を除けば、こんなことはしない。セリョンとしてはできれば関わり合いになりたくはなかったけれど、彼女の性格からして到底見過ごしにはできない。
 セリョンは恐る恐る近づいた。細い月明かりに照らされたその者は、どうやら男のようである。大の字ではなく、うつぶせた形で横になっているため、顔は見えない。そっと手を伸ばし、まだ息があることを確かめ、まずはホッとする。雪の夜、死人に遭遇するなんてことだけはご免被りたい。
 この男は死にたいという願望でもあるのだろろうか。だったら、このまま見ないふりをした方が―。
 セリョンは溜息をついた。
「良いわけないわね」
 肩を竦め、倒れている男の側にしゃがみ込む。 
「済みませんけど、こんなところで夜明かししたら、間違いなく死んでしまいますよ」
 肩に手をかけて揺さぶってみる。先刻、セリョンが悲鳴を上げたのは、実のところ、この男が血まみれで倒れているように見えたからだ。その原因はすぐに判った。男のすぐ側に今を咲き誇る紅椿が見えたからだ。夜目に慣れないセリョンには、男が鮮血を帯びているようにしか見えなかった。
 だが。男の身体に伸ばした手を改めて見つめ、セリョンはまた息を呑んだ。血が付いている。では、やはり見間違いではなかったのか。
「―っ」
 これはただ事ではない。セリョンは男の身体をそっと仰のかせた。長身で逞しい身体を抱き起こすのは、小柄なセリョンでは至難の業であったが、この際、そんなことは言っておれない。この男は怪我をしている。
 案の定、セリョンの勘は当たった。男の左腕には衣服越しに夜目にも判るほど、はっきりと血が滲んでいた。衣服の上からでは傷がどれほどのものなのかは知れない。セリョンは自分のチョゴリの袖を破り、血の滲んだ二の腕をきつく縛った。こうしておけば、幾ばくは止血効果が期待できるはずだ。
「しっかりして、ねえ、眼を開けて」
 いかほど呼びかけようとも、男は身動ぎもしない。セリョンの中の焦りは急激に募っていった。彼女は無我夢中で大通りに戻ると、向こうから歩いてくる下僕連れの商人に取りすがった。
「お願いです、人が、人が死にかけています。手を貸して下さい」
 セリョンの必死の形相に慌てて駆けつけた商人は、巨漢の下僕に命じて男を背負わせた。セリョンは親切な商人と共に色町の我が家へと小走りに向かった。殆ど走るように歩きながら、ふと見上げた漆黒の夜空には、もう細い月はどこらにも見あたらず、空は灰色の雲で覆い尽くされていた。
 氷のように透明な月とひらひらと闇夜を舞う雪の花びら、あの美しい光景はそれこそ誰かが悪戯で見せた幻であったのか。セリョンは眼をこすってから、雪の中、慌てて少し先を行く商人や男を背負った下僕の後を追った。

 セリョンはかれこれもう一刻余りも前から、ずっと男の顔を見つめていた。それにしても、美しい男である。倒れたところを発見したときは気づかなかったけれど、男は眼帯をしていた。色町の一角、?翠翠楼?がセリョンの住まいである。
 翠翠楼は大見世ではないが、中規模どころの格式で、通ってくる客も富裕層が多い。常連客の中には、身をやつした両班や豪商もいる。客筋の良さは廓内の調度品や室のしつらえを見れば一目瞭然である。遊廓特有のけばけばしさからはほど遠い、両班の屋敷といっても良いほど品の良い調度品、内装は落ち着いた雰囲気を醸しだし、翠翠楼が上客を集める最大の理由である。
 その翠翠楼の二階の最奥、奥まった一室は普段、納戸代わりに使用されている。使わない座布団や古い調度で占領されていたそこを女将の命で皆が使えるようにし、連れてきた男はとりあえずそこに寝かせた。
 すぐに医者が呼ばれ、怪我の手当に当たった。左腕の他にも何カ所か切り傷があったものの、どの傷も深刻なものではなかった。左腕の怪我にしても出血は多かったが、生命に拘わるほどではないと、翠翠楼の女将と昔から懇意にしている医者は告げた。
 なのに、男はいつまで経っても、目覚めなかった。心配したセリョンが医者に訊ねると、彼は眉をひそめた。
―この者が目覚めないのは、怪我が原因ではない。心の病だ。
―心の病?
 予期せぬ応えに、セリョンは言葉を失った。
―さよう。心の中に大きな闇がある時、人はしばしば、このような有り様になる。いかほど身体が健やかであったとしても、心が病んでおれば、目覚めぬ。
―それは何か目覚めたくないことがあるから?
 かつては女将の情人でもあったというこの四十ほどの町医者は、したり顔で頷く。
―セリョンの言うとおりだ。現実で向き合いたくない事態が起きて、目覚めたくない。そういう事情がある可能性が高いかのう。マ、怪我もどうやら刀傷であるようだし、よほどのことがあったのであろう。セリョン、よく看病してやりなさい。
 セリョンを子どもの頃から知る医者は、十六歳のセリョンの頭をまるで幼子にするようにポンポンと叩いて帰っていった。
 セリョンはまた小さな息を吐いた。この男を翠翠楼に連れ帰ってから、一体何度溜息をついたことか。
 女将のウォルヒャンは、見世の者たち全員に箝口令を敷いた。それは、かつての恋人である町医者ホ・ソンの勧めでもあった。
―どうやら相当の厄介事をセリョンは引き込んだみたいだぞ。あの若い男、ただ者とは思えん。何か、とんでもないことに巻き込まれて怪我をしたのではないか。
 つまり、男の存在は隠しておいた方が良いという忠言であった。
 ホ・ソンが指摘したことはもう一つあった。治療のため、怪我をした若者の眼帯を外したソンは息を呑んだ。若者の眼帯に隠された片眼は朝鮮人には珍しい蒼い瞳であったのだ!
 片方の眼は特に珍しくもない黒瞳なのに、何故、片方だけが碧眼なのか。医者は小さく首を振りつつ語った。