寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜
涙に濡れた瞳には、逢いたくて、夢でも良いから逢いたいと願った男がいた。
?ムミョン?が優しい笑顔でひろげた腕の中にセリョンは躊躇わず飛び込んだ。
「何かそなたは放っておけない。眼を離すと鞠のようにどこかへ転がっていきそうで、危なかしくって心配だ。だから、俺がずっと側にいてやる」
「おっかさんにも同じことを言われたわ」
涙声で言えば、耳許で熱い吐息混じりに囁かれた。
「俺はこう見えても執念深い男なんでね、約束をそうそう忘れはしないのさ。良いか、この指輪がお互いの指にある限り、俺とそなたのあの日の約束は有効だ。そなたはいつか俺の妻になる」
ムミョンの胸で泣くだけ泣いて、セリョンは漸く我に返った。
「あなた、王宮にいるはずじゃなかったの」
ムミョンがセリョンのふっくらとした桜色の唇に人差し指を当てる。
「王宮でじっとしているのは俺の性に合わない。たまには妓房の用心棒をやって息抜きだ」
幾億ものぬばたまの夜を集めたような瞳に見つめられると、セリョンの胸は忽ち早鐘を打ち出す。
ムミョンに触れられた唇が熱いような気がするが、深くは考えないようにした。あっさりと離れた彼の指の温もりが少しだけ名残惜しくて、セリョンは自らそっと唇に触れてみる。
セリョンはムミョンにどうしても気になっていることについて訊ねた。
「ねえ、一つだけ訊いても良いかしら」
「ん?」
問い返す声ばかりか、まなざしまで心なしか別人のように優しげで蠱惑的なのはセリョンの意識しすぎなのか。思わず頬に余計に血が上りそうになり、セリョンは自らを戒めた。
「あの夜、あなたが私を戸曹判書さまの別邸まで助けにきてくれたときのことだけど」
「うん」
話の先を促すように相づちを打たれ、セリョンは勇気を得て話し始めた。
「あなたが極秘に調査していた事件の黒幕は、前王さまと戸曹判書さまだったわけよね。あの日、あなたが二人に最後通牒を突きつけたのは偶然だったの、それとも予め計画していたの?」
ムミョンはうつむき、しばらく自らの思考を纏めるかのように眼を瞑っていた。セリョンは応えを急かさず、辛抱強く彼が話すのを待つ。
静かな刻が流れ、ムミョンが面を上げた。
「あれはまったくの偶然だ。俺には事態がああまで進んでも、兄を断罪する勇気がなかった。さりながら、たまたま別邸で二人がつるんでいるのを見かけて、また悪事を企てているのかと気になって後をつけた。二人が話しているのを聞いて―、何の罪もない民にこれ以上重い税を課して負担をかけようとしているのをいまだ諦めていなかったのを改めて知ったんだ。あの瞬間、俺の我慢も限界を超えた」
ゆえに、あの場で、これ以上、暴虐の限りを尽くす兄王と奸臣を見逃せないと咄嗟に決断したのだとは理解できる。しかし、あの夜、内禁衛の兵たちはまるで最初から世子の命を受けていたかのように良い頃合いで現れた。あれも偶然のなせる技だとは思えないのだが。
セリョンの疑問を見抜いたように、ムミョンが笑った。
「流石はセリョンだな、それだけの応えでは納得できないか」
彼は心もち首を傾げ続けた。
「俺があの時、鳩を飛ばしたのを憶えているか?」
あ、と、セリョンは声を上げた。
「そういえば」
セリョンを連れて邸を脱出するために庭を走っていた時、ムミョンは複数の足音を聞いて茂みに身を隠した。あの際、彼はよく聞き知った声が兄と戸曹判書のものだと気づいたはずだ。
―俺は確かめたいことがある。
決然として言い、セリョンをその場に残してゆこうとする彼をセリョンは止めた。その直前、彼は指笛を鳴らし、真っ白な鳩を呼び、携帯用の筆で紙片に何かを走り書きしていた。セリョンはあまり深く気に留めていなかったけれど、今から思えば、あれは内禁衛将に至急の出動を要請する内容の文だったのだろう。ムミョンは急いでしたためた文を鳩の脚に括りつけて飛ばしたのだ。
結論がやっと落ち着くべき場所に落ち着いた気がする。
「あの鳩は伝書鳩だったのね」
「ご名答」
今更ながらに納得して言うのに、ムミョンは笑ってセリョンの頭を撫でた。どうも今夜のムミョンは必要以上にセリョンに触ろうとするような気がするのだが―。
セリョンの動揺も知らず、ムミョンは暢気に笑っている。
彼がふと真顔になった。おもむろに眼帯を取り去る。次の瞬間、セリョンは息を呑んだ。
眼帯の下から現れたのは、美しく輝く蒼い眼だった。まるで話に伝え聞く?オアシス?と呼ばれる西域の砂漠に点在する奇跡の湖のように、どこまでも深い深い蒼。
もしくは、よく晴れた初夏の空のような涯(はて)のない蒼穹。こんなに綺麗な蒼を、セリョンはいまだかつて見たことがなかった。
「俺が自ら素顔をさらしたのは、そなたが最初だ」
深い海の色に染まった眼で、彼がセリョンを見つめている。
「綺麗だわ、こんな美しい蒼色は見たことがない」
「初めてだ、俺のこの眼を見て美しいと言われたのは」
苦痛に満ちた表情が一瞬、端正な面に浮かんで消えた。
「そなたも聞いただろう? 兄上や義母は俺のこの眼を見て、いつも眉をひそめていた。化け物を見るような侮蔑に満ちた眼は忘れようとしても忘れられるものではない」
苦渋に満ちた声音に、セリョンは手を伸ばして、そっとムミョンの左眼に触れた。
「あなたのこの眼は、世界で一番綺麗よ、ムミョン」
「そなたには、そう見えるのか?」
躊躇いがちな問いかけは、いかにも自信がになさそうで、頼りなげな幼子のようだ。セリョンは弱々しい問いかけに、微笑みで返した。
「ええ」
力強い肯定に、ムミョンの顔が早春にひらく花の蕾のようにほころぶ。
この笑顔を守りたい。大好きな男のこの笑顔が消えないようにずっと側で支えてあげたい。
セリョンの中で、生まれて初めて芽生えた誰か自分以外の人間を守りたいという願いは、自分でも愕くほど強い衝動に他ならなかった。
もしかしたら、何の力も持たない弱い自分が他人を守ると考えるなんて、おこがましいのかもしれない。それでも、セリョンは今、自分をひたきな眼で見つめている男を、大好きなひとを心から守ってあげたいと願わずにはおれない。
セリョンのひそやかな決意に応えるかのように、ムミョンがふわりと微笑む。今、二人の頭上に輝く満月が人の形を取ったなら、こんな美しい男になるもかもしれない。月光が彼の美しい面を照らし出し、妖艶な微笑みに、セリョンの鼓動はまた音を立てて打ち始める。
―私はムミョンが好き。
彼への胸苦しいほどの恋情を改めて自覚するのだった。
三月下旬、二人が吐く息が白く細く夜気に溶けてゆく。雪が残る都の夜は春まだ浅く、冬並みの寒さだが、あと数日も経たない間には桜花が咲き始めるだろう。
重税を課して長らく民を疲弊させた前王が退き、新しい王が八年ぶりに立つ。早くから民衆寄りな拓けた考えを持ち、英邁だと評判の世子の即位に、早くも朝鮮全土の民から期待が寄せられていた。
新王の即位を控えて何かと華やいだ雰囲気の都には本当の春も近い。
セリョンは大好きな男と共に、寒さにも頓着せず飽きることなく輝く満月を眺めていた。クシャン、可愛いくしゃみをしたセリョンにムミョンが笑って彼女を引き寄せる。
作品名:寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜 作家名:東 めぐみ