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寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜

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「評判になった仮面劇を見た者なら、下々まで知ってるさ。もっとも芝居では世子さまは毒殺されちまう筋書きだけど」
 よもや町の辻で上演される仮面劇とそっくりそのまま同じことが宮殿で起きているなんて噂、セリョンはまったく信じていなかった。
 実際には世子は無事に王宮に帰還を果たし、愚王は廃位され、世子が即位するというわけだ。
 一月の終わり、仮面劇の一座は都での興行を大盛況の中に終え、次なる興行地へ向けて出立していった。
 あの芝居を見たのはまだほんの少し前なのに、色々ありすぎて今では随分と昔のような気がしてならない。
 女将が気遣うように言った。
「マ、ムミョンって男は旅芝居の一座と一緒に遠くへ行っちまった―そう思って忘れることだ。女は良い恋をして磨かれて綺麗になる。うちの妓生たちにも常々言ってるけど、お前にも同じことを言おうじゃないか。また、良い男が現れるよ、幻のように消えちまう男じゃなくて、お前を心底から大切にしてくれる生身の男がさ」
「―そうね」
 気のない返事をするセリョンに、女将は頭を抱える。
「ああ、本当に親不孝な娘だよ! お前が早く良い男に嫁に行くまで、おっかさんはおちおち安心できやしない。眼を離したら、とんでもない男に惚れて、また泣く羽目になりそうで、危なかしいったらないよ」
 いつもなら、これだけ言ってやればすぐに言い返してくる勝ち気な娘である。だが、今日のセリョンは虚ろな眼をして生きているんだか、死んでいるんだか判らないようだ。
「ああ、しっかりおしよ。妓房の娘が失恋の一つや二つで魂抜かれたようになって、どうするんだよ! 畜生、ムミョンのヤツ、王さまだか世子さまだか知らないが、今度逢ったら、うちの可愛い娘の心を弄びやがって、ただじゃおかないんだからね」
 息巻く母のひとり言を聞きながら、セリョンは思うのだった。
 彼―ムミョンに逢うことはもう二度とない。何しろ、彼の家は壮麗な宮殿の奥深くなのだから。

 セリョンは盛大な溜息をつく。ニィイと愛らしい啼き声がして、彼女は眉を下げた。
 夜空を見上げれば、円い大きな月が紫紺の空に浮かんでいる。降るような星明かりの下、セリョンがしゃがみ込んだ地面には薄く雪が積もっていた。
 今年の冬はただでさえ寒さが厳しい漢陽には、例年よりも降雪量が多かった。もう三月、そろそろ花便りも聞く季節が近いというのに、一昨日から降り出した季節外れの雪は二日降り続けて今朝になって漸く止んだ。気温が下がって夜の中に凍った雪は根雪になっていて、なかなか溶けない。
 流石に道の雪は今日一日でかなり溶けてしまったが、それでもまだかなり残っている場所もあるのだ。
 深い陰影を刻んだ満月は蒼褪めていて、手を伸ばせば触れられそうなほどに近い。けれど、本当は、どんなに手を伸ばしたとしても、空にある月に届くことはない。
 都の桜が満開になる頃、新しい王の即位式が行われるとつい数日前、発表があったばかりだ。前王は病気のため退位、代わって異母弟である世子が即位して新しい王が立つ。
 いまだ即位式は行われてはいないが、世子イ・ホンは実施的には、この国の王である。
―あなたは本当に遠い男(ひと)になってしまったのね、ムミョン。
 セリョンは夜空の月に向かって呟く。
 ムミョンはセリョンにとっては、あの満月のようなひとだった。ある日突然、眼の前に現れ、セリョンの心を奪い、去るときも風のように姿を消した。国王となったムミョンはもうセリョンにとっては二度と会うこともない遠い存在だ。
 宮殿に住まう王と妓房の娘は所詮、住む世界が違う。もう彼とセリョンの人生が再び交わることはないだろう。
 世子という高貴な立場を隠し、セリョンの心を盗んだまま、また遠い場所へと還っていった。いわば、?ムミョン?という男はセリョンにとっては幻のようなものだ。幻はあの空にある月と同じで、幾ら触れようとしても触れられはしない。
 ?ムミョン?がいなくなってもうかれこれひと月余りが経つというのに、セリョンの心はいまだにムミョンに盗まれたままだ。ムミョンは遠い場所にセリョンの心も持ち去ってしまった。
 セリョンはいわば騙されたも同然で、不実な男を恨んでも良いはずなのに、何故か恨めない。―どころか、ムミョンが時に見せた屈託ない笑顔がいまだに眼裏から消えず、夢には彼が出てくる。
 夢の中で、セリョンは幸せだった。夢の中でだけはムミョンと一緒にいられる。けれど、夜が明けて朝が来れば、セリョンはまたムミョンと離ればなれになってしまう。彼の夢を見た朝、セリョンは大抵泣きながら目覚めた。
 いっそ永遠に眠り続けて目覚めなければ、夢で彼と一緒いられる。そう母に言ったら、
―馬鹿な娘だよ。あんな薄情な男のために。 と、女将は泣きながら弱々しい力でセリョンの肩を何度もぶった。
 足下には二匹の子猫がセリョンのチマに纏いつくようにじゃれている。昨日、セリョンは翠翠楼に七番目に迎えられることになった子猫を連れ帰った。いつもなら捨て犬や捨て猫を連れ帰っただけで怒り出す母も、流石に昨日は何も言わなかった。
 母なりに傷心のセリョンを心配してくれているのだ。母のためにもムミョンのことも、失った初恋も早く忘れようと思うのに、理性では割り切れても心がついてゆかない。
 衝撃的なあの事件の夜からもう一ヶ月になるというのに、セリョンは相変わらず魂が抜け出た空蝉のような体である。
 姉のように慕っている翠翠楼の稼ぎ頭ファオルは時々何か言いたげにセリョンを見ているが、結局、何も言わない。恐らく、セリョンが自分でこの失恋を乗り越えるのを待ってくれているのだ。
 セリョンは自分の左手をしげしげと見た。月長石の指輪があの日と同じように填っている。
 いつまでも未練だから外さないといけないのに、何故か離せない。あの露天商の老人は言った。
―月の光は離れた場所にいる人間同士を結びつけるといわれておる。お前とあの若者が身につけておれば、きっと結びつけてくれるはずじゃ。
「まさか、ね」
 セリョンは淋しげに微笑んだ。王宮におわす国王さまと自分には何の接点があるはずもない。いずれ、ムミョン、いや、あの方は玉座に座る彼にふさわしい美しくて高貴な姫君を王妃として迎えるだろう。
 セリョンは意を決して月長石の指輪を引き抜こうとした―その時。
「おいおい、何で約束の証の指輪を外すんだ?」
 セリョンが固まった。もしかして、この声は。振り向きたいのに、振り向く勇気がない。もし振り向いたら、この幸せな夢が覚めてしまいそうで。
「俺は今でもちゃんと指輪を填めてるのに?」
 懐かしい声が頭上から降ってきて、セリョンは涙ぐんだ。しゃがみ込んだセリョンの髪の毛を大きくて暖かな手がくしゃくしゃと撫でる。
「ところで、新入りの名は何とつけるつもりだ?」
 いきなり問われ、セリョンは呟いた。
「―ムミョン」
「何だ、俺と同じ名を新入りにつける気か? ここの犬猫の名前は皆、数字だから俺はまた?七?とかつけるんだとばかり思ったが」
 からかうような声には、隠しようのない優しさと労りが混じっている。
 セリョンはもう涙が止まらない。