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寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜

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「あれは朕が十二くらいの頃だったか。お前はまだ六つだったな。朕は難しげな漢籍がやっと読めるようになり、父上に喜び勇んで報告しにいった。けれど、父上はお前の母親のところにいたのだ。牡丹が咲く庭園で、父上がそなたを抱き上げ、そなたの母親が父上に寄り添っていた。誰が見ても笑顔になるくらい、幸せそうな家族の姿だったよ。だが、父上が朕や母上にそんな優しい笑顔を向けてくれたことは一度もなかった! 朕は惨めな気持ちで足音を立てないように走り去るのが精一杯だった」
 王の眼からひと筋の涙が流れ落ちた。
「朕はお前もお前の母も、そして父上も許さない。朕と朕の母上をどこまでも苦しめ続けた父上を今も呪っている」
 王が言い終えた時、セリョンは涙が止まらなかった。
 王が父王を殺したのは君主としても、人としても許される行為ではない。けれども、彼が正気を失うほどの深い孤独に囚われたのは、ただ父に振り向いて貰いたい、愛されたいという子ども心ゆえだった。
 巡り合わせが悪かったといえば、いえるのかもしれない。が、話を聞く限り、セリョンは思わずにはいられなかった。
 ムミョンや彼の母も犠牲者なら、また、罪に手を染めてしまった王もまたある意味では犠牲者ともいえるのではないか、と。
 すべてを吐きした王は、魂がさまよい出たかのように虚ろな表情で座り込んでいる。
 内禁衛将が王に近づくと、彼は今度は大人しく立ち上がり、縄をかけるまでもなく自分から長官についていった。
 セリョンの頬をまた新たな涙が流れ落ちる。
 終わったのは、長年の兄と弟の確執だけではなかった。恋い慕った男が世子、いや、あの狂気に満ちた王が廃されるであろう今は新たな王となるべき人だと知れた今、セリョンの恋が実る見込みはなくなった。
 初恋はうたかたのように消えたのだ。
 セリョンは立ち上がった。庭は内禁衛の兵士たちが行き来して、ちょっとした混乱状態になっている。物陰に隠れていたセリョンがいなくなったことに気づく者は誰一人としていなかった。
 走りながら、セリョンは泣いていた。はるか後方で誰かが自分の名を呼んでいるような気がしたけれど、振り向きもせずに泣きながら走った。
―さよなら、ムミョン。
 心の中で大好きな男に別離を告げる。セリョンが愛したのはこの国の世子でもなく、ましてや国王でもない、ムミョンという淋しげな瞳をした男だった。

 グスッ、セリョンは盛大に洟をすすり上げた。眼前では翠翠楼の女将にして母のウォルヒャンが何ともいえない表情で娘を見ている。
 ここは翠翠楼の一階、女将の仕事部屋だ。文机を間に母娘は向き合っている。女将はやれやれと言いたげに袖から手巾を取り出した。
「そんなに泣いたら、身体中の水分が流れ出て、ひからびちまうだろうに」
「そうかしら、でも、涙が止まらないの」
 セリョンは母から手巾を受け取り、盛大にに洟を噛んだ。
「馬鹿な娘(こ)だよ。だから私があれほど注意したっていうのにさ。あんな胡乱な男に夢中になるなって再三注意したんだよ、おっかさんは」
「でも、まさかムミョンが世子さまだなんて、誰が思うっていうのよ」
 十日前の夜、セリョンはムミョンが実はこの国の世子であるという実に衝撃的な事実を知った。合わせて国王が前王を病死に見せかけて暗殺したこと、更には弟である世子を事故死に見せかけて殺害しようとしたことまで知ることになった。
 事件の翌日、翠翠楼を一人の男が訪ねてきた。あろうことか、その男は内禁衛将と呼ばれていた武官で、内禁衛の長官だった。彼はこの女将の仕事部屋で今回の事件のあらましを語った。その中で、セリョンはムミョン―世子イ・ホンがかねてから異母兄である国王に生命を脅かされていたこと、ひと月半前のあの運命の夜、?瀕死の重傷を負った世子?が宮殿からいずこへともなく消えたことを聞かされた。
―我々は世子邸下のゆくえを懸命に探していました。亡骸が見つからないため、邸下がご無事であるという一縷の望みを持って捜索していたのです。
 国王や戸曹判書を安心させるため、これ以上、世子を狙わせないために、世子と年格好の似た罪人の死体を捕盗庁から手に入れて、顔を潰した上で、わざと戸曹判書の眼に入るように画策した。
―邸下はあの夜、王にひそかに呼び出され、大殿に赴かれました。勧められた酒にしびれ薬が入っており、宮殿を出ての帰り道、刺客に襲われたのです。
 結果として、世子自身が稀に見る剣技の持ち主であったことが彼の生命を救った。刺客は世子に致命傷を与えることができなかった。だが、痺れ薬を盛られた世子は腕を切られて昏倒した。
 生命からがら宮殿を逃れた世子は、町外れまで来たところで、ついに力尽きてしまったのだ。それを刺客は世子が致命傷を負ったと勘違いして、戸曹判書に報告したのだ。
 世子が倒れた場所―セリョンがムミョンを見つけたあの路地裏に刺客が戸曹判書と共に確認に駆けつけた時、既に世子の?亡骸?は他人のものと入れ替えられていた。
 内禁衛将は宮殿から続く血痕を辿り、世子の足取りを懸命に追った。しかし、足取りはあの場所からふっつりと絶えた。内禁衛将も、肝心の世子がどこに消えたのかまでは判らず、突き止めるのに時間がかかったという。
―我々が駆けつけた時、あの場にはおびただしい血痕が残っているだけでしたから。
 彼らは懸命に消えた世子のゆくえを追い続け、半月後に漸く長官の部下の一人が町で世子に酷似した若い男をたまたま見つけたと報告に来た。
 その時点で、内禁衛将は世子の生存を確信し、ひそかに翠翠楼の近くを見張り、姿を現した世子に接近した。以後は内禁衛の精鋭が民に身をやつし、常に世子をつかず離れずの場所で警護しつつ、緊急時には連絡を取れる状態にしていたという。
―どうか、昨夜見たことは忘れて下さい。その方があなたのためだ。国王殿下は前王の父殺しの罪を公にされるつもりはないのです。もし事が明るみになれば、王室の体面を穢す醜聞となりますゆえ。
 長官は暗に、王室の醜聞となり得る話を洩らせば、セリョン自身の身が危うくなると告げたのである。
 最後にセリョンは長官に訊ねた。
―あなた方内禁衛は王の親衛隊で、王さまを守る組織であるのに、何故、王さまではなく世子さまをお守りしたのですか?
 内禁衛の長官は陽に灼けた髭面をこのときだけ、綻ばせた。
―あなたも我らが新しき国王殿下のお話を聞いたでしょう。あの方は稀に見る逸材だ。私たちは王を守る武官である前に、この国の民です。民は王のために存在するのではなく、王が民のために存在するのだと言い切ったあの方は、いわば、この朝鮮の光ではありませんか。あの方が王位につかれれば、朝鮮の闇は消え去り、明るい未来が開けると信じているからです。
 セリョンは涙を拭って呟いた。
「あの仮面劇は絵空事ではなく、真実だったのね」
 ムミョンと出逢ったその日、セリョンは都で評判の仮面劇「王宮の陰謀」を見たのだ。あれは薄幸な「光の世子」が腹黒い異母兄である国王と内官長を筆頭とするその取り巻きの奸臣たちによって陥れられ、殺されるという悲劇だった。
「お前、そんなことも知らなかったのかい」
 女将は呆れたように鼻を鳴らした。