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寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜

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 よろめきながら言う国王を、ひときわ威風堂々とした内禁衛の長官らしい武官が冷たくあしらった。
「畏れながら、あなたさまは既にこの国の王ではありません。我々、王の親衛隊が忠誠を誓うのは廃主ではなく、新しい国王殿下です」
「な、なにっ、朕が廃主だと!」
 王は唇を戦慄かせ、ムミョンを射殺さんばかりの烈しい眼で見据えた。もし仮に視線で人を殺せるなら、この瞬間、ムミョンは間違いなく兄に殺されていただろう。
 内禁衛の長官が前王に近づき、縄をかけようとするのに、ムミョンが叫んだ。
「待て」
 ムミョンは長官に黙って首を振った。
「ですが、殿下」
「内禁衛将、止せと言っている!」
 この場に及んでも、ムミョンが兄に縄を打ちたくはないのだと―セリョンは彼の切ない心を思い、涙が溢れそうになった。
 ムミョンは兄を哀しげな眼で見つめる。こんな辛そうな表情をした彼を見るのは初めで、セリョンまで哀しくなる。
「兄上、私は最後まであなたを信じていました。いや、信じたかった」
 ムミョンが小さくかぶりを振った。
「あなたは俺と違って、何もかもに恵まれていたのに、何故、道を誤られたのですか? 国は民のためにあるのであり、民は王のために存在するのではない」
「それでは、お前の考える王というのは一体、何なのだ」
 前王が爛々と光る眼でムミョンを睨めつけた。
「申してみるが良い」
 その続きは、
―お前になど、判るはずがない。
 とでも言うかのようだ。しかし、ムミョンは淡く微笑した。
「その応えなら、はっきりと申し上げられます。王は民のために存在する。民のためなら、王は生命すらなげうつ覚悟が必要なのではありませんか。何故なら、王は朝鮮中の民という民の父だから。親は子のためなら、我が生命すら惜しまぬものです」
「馬鹿な。何を世迷い言を申しておる。王が民のためにあるのではなく、民こそが王のために存在し、王や王族、両班といった者たちのためには生命を捧げねばならんのではないか」
 前王が事もなげに言うのに、セリョンは知らず拳を握りしめた。怒りのあまり、自分が内禁衛将の代わりにあの愚かな王に縄を掛けてやりたいくらいだ。
 何が王や王族、両班のために王が存在する、だ。寝言は寝てから言って欲しい。あんな愚かな王がいるから、民の暮らしはいつまで経っても良くならないし、毎日身を粉にして働き通しに働いても、食べるものにさえ事欠く者が多いのだ。
 ムミョンは透徹な瞳で前王を見た。
「あなたは土台、その考えからして間違っていた。それでも兄上、あなたが改心して下されば、私は表には出ないつもりでした」
「たかだか年貢米を増やしただけで、そなたは朕から王座を奪うのか! そのようなことは歴代の王もやってきたことではないか。きれい事を申しながら、その実、そなたは王になりたくて朕から玉座を簒奪する理由を探しただけであろうが」
 ムミョンが静かな声音で断じた。
「俺が何も知らないとお思いですか? あなたの言うとおりです、年貢の取り立てだけでは、私は立ち上がらなかったでしょう。私がこれ以上、見て見ないふりはできないと決断した理由は、兄上ご自身が一番よくご存じなのでは?」
「そのようなもの、朕は知らぬっ。そなたは王位欲しさに実の兄を陥れたのだ。父上が知れば、あの世で嘆かれるであろうよ」 
 ムミョンの眼がスと細められた。それは見ようによっては酷薄とさえいえるほどで―、セリョンは初めて見る彼の一面に愕く。
「それを、あなたが言うのか、兄上」
 ムミョンは眉根を止せ、首を振った。
「兄上はどうしても俺を怒らせたいようだから、この際、はきと申し上げましょう。父上が亡くなられたのはご病気などではない。兄上、父上が崩御された際、死因は確か持病の心ノ臓の発作だと公表されましたね。さりながら、御医の中の心ある者から、あれはすべて狂言であり、兄上が父上にひそかに毒を差し上げていたという報告を受けています」
 セリョンはまたも声を上げそうになり、両手で口許を覆った。
 よもや、王が前王を暗殺していたなんて―。つまりは息子が父親を自ら殺したということになる。まだこの暗愚な男を王と呼ぶならば、先代の王となる聡宗は聖君として知られていた。早くに知宗大王の養子となり世子に立てられ、王朝中興の英主と讃えられる知宗を父とし、徳高く生涯、知宗大王を陰ながら支えた賢夫人貞順王后を母として育った王である。
 知宗大王は終生、側室を持たず、正室である貞順王妃一人を守ったものの、二人の間には御子が産まれなかった。そのため、聡宗が幼くして養嗣子として迎えられたのである。
 徳の高い両親の薫陶を受けた聡宗は周囲の期待どおり、英邁な君主となった。聡宗の御世には年貢の取り立ても今ほど厳しいものではなかったのだ。
 その聖君と民から慕われた父王を、この若い王が本当に殺したというのか―。いや、その前に実の息子が父を殺して、王位を奪ったというのか。あまりのおぞましく哀しい現実に、セリョンは愕然とした。
 ふいに王が笑い出した。乾いた笑い声を上げ、何がおかしいのか、涙目になるほど笑っている。
 ムミョンの静かなまなざしは、狂ったように笑う兄を憐れむかのようだ。ひとしきり笑った後、王は言った。
「先刻、お前は言ったな。朕が何もかもに恵まれていたと」
 ムミョンは黙って兄を見ている。王は首を振り、吐き捨てるように言った。
「朕から言わせれば、お前の方こそ朕が手にできなかったすべてを手中にしていたのではないか。良いか、よく聞け。父上の意は最初から朕にはなかった。父上が愛情も関心も向けられたのは、長男たる朕ではなく、弟のお前だ。いや、我が子だけではない、父上は明らかに朕の母を疎んじていた。あの方の寵愛を独り占めにしていたのはお前の母親で、朕の母ではなかった。母上は去年、亡くなるまでそのことを嘆かれていた」
「そんなことはありません、兄上、父上は誰よりも兄上を―」
 言いかけたムミョンの言葉に王が覆い被せるように言った。
「ホン、朕はそこまで馬鹿ではない。父上が母上の住まう中宮殿や朕のいる東宮殿には寄りつきもしないのに、そなたの母の許には毎日のように通っているのを知らないとでも? 子ども心にどれほど羨んだか、父上の愛情を独占する弟を叶うなら殺してやりたいと何度願ったかしれぬ。そなたには判らぬだろう、父に一度として抱き上げられたり、微笑みかけて貰えなかった朕の口惜しさと淋しさは」
 王が憎しみに燃える眼をムミョンに向けた。
「お前のような化け物が何故、父上に愛されたのであろうな」
 化け物―、王が言う意味をセリョンは咄嗟に悟った。王はムミョンの眼帯の下に隠れている左眼のことを言っているのだ。
 ムミョンがキュッと苦しげに眼を細めた。まるで痛みに耐えるような表情だった。一瞬の変化はすぐに凪いだ湖面のような無表情に隠されてしまったため、恐らく誰も気づいてはおるまい。
 けれど、セリョンは確かに見たのだ。
 実の兄に化け物と呼ばれた時、大好きな男の瞳に深い哀しみがよぎった。ムミョンは物心ついたときから、ずっと、その哀しみに耐えてきたのだ。幼い彼が味わった心理的苦痛は察するに余りあった。
 王が泣き笑いの表情で言った。