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寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜

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「だから、楽しみだよ。ベテランの妓生も真っ青なくらい色っぽく男を誘惑できるだなんて、恋人としては願ってもない話だろ。俺も是非、一度、あんな風にセリョンに迫られてみたい。何なら一度、やってみても良いぞ、そのままセリョンを押し倒すから」
「何ですって」
 セリョンがふつりと泣き止み、涙の滴を宿した眼で睨みつけた。
「言うに事欠いて、そこまで言う? あれは演技で、逃げるために仕方なくやったんだって言ってるでしょ」
 セリョンがまた拳を振り上げようとしたので、ムミョンは肩を竦めた。
「怖い、怖い。そなたは実は気が短い暴力女だったんだな」
「え! 何か言いました?」
 本当は聞こえていたのだけれど、セリョンはわざと訊き返してやる。ムミョンもそれは判っていたようで、笑うだけで何も言わなかった。
 セリョンは胸に手のひらを当てた。トクトクと心ノ臓が音を立てている。まだ無事にここを出られたわけでもないのに、ムミョンと口論している自分が信じられないし、口喧嘩していてさえ彼が相手だと愉しい。
―私、やっぱり、彼を好きなんだわ。
 今更ながら、そんなことを考えてしまう。
 ムミョンの秀麗な面から笑みが消えた。袖から何やら取り出したかと思えば、携帯用の筆記用具だ。彼は筆に墨を含ませ、小さな紙切れにすらすらと文字を書いている。
 更に男性にしては長くて綺麗な指を唇に添えると、ピィとかすかな音が夜陰を震わせた。
 先刻の足音の主たちに見つかる危険を冒してまで、何故、指笛を鳴らす必要があるのか。セリョンが訊ねようとした時、漆黒の空を白い鳥が飛翔してくるのが見えた。
 雪のような美しい毛並みの鳩がムミョンの差し伸べた腕に止まる。ムミョンは紙片を鳩の脚に結びつけ、また空に放った。
「セリョン、俺は突き止めなければならないことがある」
 怖いくらいに真剣な表情に、セリョンは頷いた。
「そなたは、ここで待っていてくれ。俺が戻ってくるまでは絶対にここを動くんじゃないぞ」
 念を押され、セリョンは首を振る。
「いやよ、あなたがどこかに行くのなら、私も一緒に行く」
「セリョン!」
 ムミョンが低声になった。
「俺がこれからしようとしていることは危険なんだ。俺はそなたを巻き込みたくない」
 セリョンはムミョンに左手を持ち上げて見せた。細い月明かりに月長石の指輪がかすかに煌めく。
「ムミョン、私たち、どんなに離れていても心は繋がっていると信じて良いのよね」
「むろんだ」
 セリョンはムミョンを真摯なまなざしで見つめた。
「なら、私も連れてって。あなた一人を危険な眼に遭わせたくないの」
「判った」
 少しく後、ムミョンが渋々といった様子で頷いた。ムミョンの表情は硬かった。これから先、彼が?確かめよう?としていることがどれだけ危険なのか察せられる。
 それでも、セリョンはムミョン一人を行かせるつもりはない。まだ互いにはっきりと?好きだ?と意思確認もしていないけれど、彼の気持ちは指輪を受け取ってくれたことが何より証明している。そして、セリョンもまた彼と同じ気持ちだ。
 ムミョンは広い庭を足音を立てずに進む。セリョンは彼の後をついて歩きながら、闇の中を進んだ。月明かりはあるものの、闇は深い。無限の闇が永遠に終わらないのかと思った頃、漸く小さな建物が見え、ムミョンはその先で止まった。
 どうやら、そこは離れらしい。母屋とは独立して建てられており、一戸建てのようになっている。障子戸には二つの影が映っている。ムミョンは大人の腰の高さほどの茂みに身を潜め、中の様子を窺っている。セリョンは彼の隣で息を殺した。
 茂みから建物まではさほど距離はなく、建物内の話し声は鮮明に聞き取れる。
「これで殿下(チヨナー)の御心を惑わすものは、この世からすべてなくなりました。どうぞ、ご安心下さい」
「すべては、そなたのお陰だ、戸判大監。そなたの忠義を朕(わたし)はこれよりも忘れぬぞ。すべてが落ち着いたら、そなたを一等功臣に任ぜよう」
「真に聖恩の限りに存じます。これからも臣、戸曹判書パク・テギルは国王殿下(チュサンチョナー)に忠誠をお誓い致します」
「すべてが片付いた後とは、逆賊イ・ホンの葬式を出してやってからか?」
「大逆罪を犯した大罪人です。葬式など必要ありますまい。王子の称号を剥奪してやれば良いのです」
 ハハと愉しげな笑いが聞こえてきた。会話を聞いている中、セリョンは身体中の血が凍るような恐怖に囚われた。
「ムミョン、イ・ホンって、大罪人って」
 何より、イ・ホンという人物はこの会話の流れからすれば、王子つまりは王族という尊い身分の人のようだ。もしや、隣にいるムミョンが会話に登場する?イ・ホン?なのだろうか?
 確かに彼は真の名は?イ・ホン?だと名乗った―。
 けれど、ムミョンはセリョンの言葉さえ聞こえないかのように、ただ黙然と虚空を凝視していた。いつも纏う翳りが今はいっそう濃くなり、ムミョン自身を周囲の闇が取り込んで彼が消えてしまうのではないかと危ぶむほどに。
「邪魔者であった弟が消えれば、我々の計画は易々と進むはずだ」
「南方の村々に課す税の取り立てを更に強化する手筈、すぐに整えましょう。やっと我らの積年の計画を遂行するときが参ったのですね、殿下。これで我らも少しは良い眼が見られますな」
 声の主が言い終わる前に、ムミョンがスと立ち上がった。
「ムミョン―」
 建物の中の二人は?イ・ホン?を消すと話しているのに、そんな物騒なところに出ていってはムミョンの身が危うくなる。セリョンは叫びたかった。だが、ムミョンのあまりにも悲愴な表情を見て、何も言えなくなった。
「セリョン、頼むから、ここから先は俺のやりたいようにさせてくれ。何があっても、そなたは出てくるな」
 こんなに悲痛な顔をした男を、どうして止められるだろう。事情が判らないセリョンにも、ムミョンが何か哀しい覚悟をしているのは自ずと察せられた。
 ムミョンはセリョンから離れ、大股で離れに向かってゆく。やがて、土足のまま短い階を上がり、音を立てて両開きの扉を開けた。
「そうはさせぬ。お前たちの底なしの薄汚い野望のために、あまたの民を苦しめることはできない」
 セリョンはそろそろと茂みから出て、階と高くなった建物の床の間にうずくまった。ここからだと上手く身を隠せて、開け放たれた扉の向こうがセリョンにも辛うじて見える。
 室には座椅子(ポリヨ)に座る若い男と、小柄で貧相な男が相対している。どちらも仕立ての良いパジを纏っている。若い方が小男を?戸判?と呼んでいたからには戸曹判書パク・テギルだとは判っていたけれど、やはり、そうだった。
 あのセリョンを誘拐して犯そうとした卑劣漢の父親である。
 つとに乱行で知られる倅はともかく、戸曹判書には悪い噂はないと思っていたが、何のことはない、父親の方も同じ狢か、はたまはた、単なる女好きの小悪党の倅よりは数倍始末が悪いといえよう。
―自分たちが私腹を肥やしたいがために、罪のない農民に重い税を課すなんて、政治家として最低じゃないの。