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寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜

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 何故なのか。それは彼に指輪を渡す前であれば、考えられなかった。でも、少なくとも今は違う。
―ムミョン、あなたは一体、何者なの?
 この身のこなしは、よく訓練された間諜? 闇の世界で生きる刺客?
 やはり彼は女将やファオルが懸念するよううに、危険な男なのだろうか。
 いいえ、と、次の瞬間、セリョンは心によぎる疑念と不安を否定した。
 私はたとえ彼が何ものであっても良い。自分が好きになったのは?彼?そのものであって、彼がどこのどういう素性の男であるとかは関係ないのだから。
 突如、セリョンの手を引いて走っていたムミョンが止まった。弾みで、セリョンはムミョンの広い背中に頭をぶつけてしまう。
「ムミョン?」
 すわ何事かと叫んだセリョンにムミョンが振り返った。
「シッ」
 鋭い視線で牽制し、手近な樹の影へとセリョンを引っ張る。膚がそそけだつような深い沈黙が二人を取り巻いた。
 闇の底から足音がかすかに聞こえてきて、やがて、それは次第に近くなった。ムミョンは周囲を油断なく見回し、数歩さきにあった常緑樹の茂みに飛び込んだ。むろん、セリョンも一緒である。
 匍匐の体勢でいっそう身を潜めれば、足音はどうやら自分たちの隠れる茂みのすぐ側から聞こえてくるようだ。ムミョンはなおも身を低くし、傍らにいるセリョンを引き寄せた。
「―!」
 セリョンにすれば、堪ったものではない。ムミョンの逞しい腕にすっぽりと抱き込まれた形になって、鼓動は嫌が上にも高まるのはどうしようもない。
 いつ敵に見つかってしまうかもしれない逃避行中にときめくなんて、自分でも信じられない。
 足音は複数だったが、どうやら、茂みの向こうにいるこちらには気づかずに通り過ぎたようだ。とりあえずは危機は脱したと考えて良いのだろうか。胸をなで下ろしつつムミョンを見上げたら、彼とまもとに視線がぶつかった。
 彼はもう左の手に月長石の指輪を填めている。セリョンも自分の左手を見た。やはり、彼とお揃いの指輪がそこにある。
 ムミョンがわずかに眼を眇めた。まるでセリョンの心の奥底まで見透かすかのような視線に、セリョンは眼のやり場に困ってしまう。
 ややあって、ムミョンが小さな息をついた。
「一つ訊いておきたいんだが」
 ムミョンは突然、自分の頭をくしゃくしゃとかき回した。
「ああ、俺はどうも駆け引きだとか、持って回った言い方は苦手だ。単刀直入に訊きたい。そなた、よもやあれが本性ではないんだろうな」
「え、あれって?」
 セリョンは本当に彼が何を言おうとしているのか判らない。ムミョンの精悍な面が夜目でも判るほど紅くなった。
「だからだ! 先刻、閉じ込められていた部屋で下男といちゃちゃしていたではないか」
 ひと息に言って、ムミョンは更に頬を紅潮させた。
「いちゃいちゃって―」
 セリョンは言いかけ、当惑した。
「ムミョン、見ていたの?」
 セリョンは確かに初心で奥手だけれど、耳年増ではある。そこはやはり遊廓で生まれ育ち、たくさんの色事や男と女の駆け引きを見てきただけはある。いかほど女将がセリョンに見せまいとしても、やはり自ずと見えてしまうものはあった。
 単に知識としてなら、色事に関しても、けして初心とはいえないと自分でも思う。
 だからこそ、今夜、死にそうなくらい恥ずかしいのを我慢して、あの純朴そうな下男を誘惑したのだ。初めてのことだから上手くゆくかは判らなかったけれど、結果は大成功だった。
 気の毒な下男はあっさりとセリョンの手練手管にかかり、彼女の色香に囚われた。
 セリョンの問いに、ムミョンは憮然と応えた。
「ああ」
 セリョンは眼を?いた。
「いつ、どこから?」
「そなたがあの下僕にしなだれかかる最初からずっと物陰から様子を窺っていた」
 ?しなだれかかる?の部分がやけに強調されているように聞こえたのは、セリョンの気にしすぎか?
「何で、もっと早くに助けてくれなかったの!」
 幾分の抗議を込めて言うと、ムミョンが呆れたように言った。
「出ように出られなくなったんだ。そなたがあんなに色っぽく男に迫るなんて、信じられなかったから。まるで別人だったじゃないか」
 セリョンの大きな瞳に涙が溢れた。
「死にそうなくらい、怖かったんだから」
 今でも、あのときのことを思い出しただけで、身体が震えてくる。パク・テスのおぞましい手で身体中を触れられたこと、人の好い下男に妓生たちがいつも客にしているのを真似て、精一杯媚を滲ませて誘惑しようとしたこと。
 夢中だったからこそ、できたのだ。何とかここを逃れて翠翠楼に帰りたいと思ったから、あんな恥ずかしい真似もできた。いつものセリョンであれば、見も知らぬ男に誘いをかけるだなんて、死んだ方がマシだと思うほど恥ずべき行いをした。
 生きて帰りたかったその最大の理由は、眼前にある。すべてはムミョンにもう一度逢いたくて。この容赦ないことばかり言う男に逢いたかったからこそ、普段はできもしないような妓生の真似もできた。
「ムミョンに逢いたかったから、恥ずかしいことだって頑張ってしたんだから」
 セリョンは、とうとう泣き出した。大粒の涙が次々に溢れ出し、頬をつたう。ムミョンが眼を見開いた。
「判った、俺が悪かったよ。そなたがあまりに色っぽかったんで、一瞬、いつものセリョンとどちらが本物なのか判らなくなってしまった」
 ムミョンが手を伸ばし、セリョンをもう一度引き寄せた。セリョンは男の胸に顔を埋めて泣きじゃくる。
「そうだな、怖かったもんな。俺だって、ここに来るまで、気が気じゃなかったんだぞ。一体、誰がセリョンを攫ったのかも最初は判らないし、考えている中に、こんな馬鹿げたことをするのはあの戸曹判書の倅くらいしかいないと飛んできたんだ」
「―今更だが、あの馬鹿には何もされなかったか?」
 ムミョンが気遣わしげに問う。ムミョンが見つけた時、セリョンは衣服がかなり乱れて、上半身は半裸に近い有り様だった。
―ムミョンは私がパク・テスに乱暴されたと誤解しているの?
 そう考えると、余計に哀しくて涙が止まらない。
 ムミョンが弱り果てたように言った。
「頼むから、泣き止んでくれ。俺の考えが足りなかった。この通り、謝るから」
 ムミョンはセリョンを腕に抱き、焦ったように言う。
「俺はセリョンがそんな風に泣いたら、どうしたら良いのか判らない」
 セリョンは泣きながら訴えた。
「パク・テスとの間には本当に何もなかったの、信じてくれる?」
「もちろんだ」
 ムミョンがしっかりと頷いたので、セリョンも泣き止んだ。
「あんな私を見て、もう嫌いになった? 呆れたの?」
 まだ洟を啜りながら言うと、ムミョンは首を傾げた。
「あんな―とは、どういう意味だ?」
 本当に判らないように訊くので、セリョンはまた泣いた。
「さっき、私が下男といちゃいちゃしていたと言ったばかりじゃないの」
「ああ、そのことか。いや、嫌いになんかならないさ」
 ムミョンは口をつぐみ、小さく笑った。
「っていうか、むしろ、その逆だ」
「逆って?」