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寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜

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「馬鹿だね。遊廓で生まれ育った娘が生娘であるわけないだろ。あんたがもう何人めの男になるか自分でも勘定できないさ。さ、早くおいでよ。廓仕込みの床技であんたに良い夢を見させてあげるからさ」
 下男が生唾を呑み込んだ。
「本当に、良いのか」
 セリョンは微笑んで頷いた。下男がもう待てないというようにセリョンに手を伸ばす。
「待った」
「あ?」
 美味しそうな獲物に飛びかかろうとしていた下男は、不服そうな顔でセリョンを見る。
「この脚を縛っている忌々しい縄を解いてくれなきゃ、あんたに股を開けやしない」
 さも残念そうな口ぶりである。下男はコクコクと何度も頷いた。
「お前の言うとおりだ、待ってろ、今、解いてやる」
 下男がセリョンの足下にかがみ込んで、縄が解かれた。その隙を彼女は逃さなかった。勢いをつけて片脚を跳ね上げれば、脚がまともに下男の顔面を直撃し、憐れな下男はそのまま昏倒した。
「ごめんなさい」
 セリョンは仰向けに倒れ込んだ下男に謝った。どこか、あの八百屋の若者に似た人の良さそうな男だ。
「そんなに容易く誘いに乗るあなたも悪いのよ。女は怖い生きものだから、これからは気をつけて」
 セリョンは念のため、しゃがみ込んで下男の息遣いに異常がないことを確認した。仕上げに、自分が縛られていた縄で下男の手足を縛る。
 それから室を出て元通りに扉を閉めて施錠する。これで少なくともテスが戻ってくるまで時間は稼げるだろう。
 さて、これからどうするか。セリョンはこの屋敷の作りをまったく知らない。恐らくは戸曹判書所有の屋敷には相違ない。若い女を略奪監禁するなぞ人目をはばかるから、本邸ではない可能性は高い。
 あの下男は今、来客中だかで戸曹判書がテスを呼んでいると言っていた。となれば、主人の戸曹判書も今夜はここにいるということだ。
 考えつつ廊下をゆっくりと進んでいた時、信じられない人と遭遇した。
「―ムミョン」
 幻を見ているのかと思った。忘れようとしても忘れられない男が今、ここにいる。
 ムミョンは全身闇色の装束に身を包み、顔の半分ほどを同じ黒い布で覆っている。まるで豪商の蔵に忍び込む盗賊のようななりだ。
 ムミョンがおもむろに顔半分を覆った布を外した。
「セリョン」
 彼の方はさほど愕いた様子はない。盗賊のようないでたちといい、明らかに意図的にここにいるのだと判る。
 無表情そのものの彼が突然、狼狽えたように視線を揺らした。次いで、うす紅くなる。
 その視線が胸許に注がれているのに気づき、セリョンもまた頬に朱を散らした。
 思いがけずムミョンが助けてにきてくれたことで、嬉しさのあまり、自分がどんなしどけない恰好をしていたか忘れていた。セリョンはいまだ、パク・テスにチョゴリを引き裂かれたままだ。大きくはだけられた胸許からは布を巻いた胸も露わで、実のところ、胸の上部や豊満な乳房の谷間は完全に見えている。
「―っ」
 咄嗟に両手を交差させて、露わになった胸を男の視線から隠した。
 ムミョンが自分の上着を脱ぎ、パサリとセリョンの肩を覆った。
「ありがとう」
 消え入りそうな声で礼を言うのに、ムミョンが面映ゆげな笑みで応える。
「男としてはなかなかそそられる光景だし、良い眼の保養をさせて貰ったよ」
「あなた、今、ここで殴られたい?」
 セリョンが拳を握りしめると、彼はとんでもないと手のひらを振った。
「冗談も大概にしてくれ。こんなところで殴り倒されるのはご免だ」
 視線と視線がぶつかり、セリョンは表情を引き締めた。確かに、ここは痴話喧嘩をしている場合ではないだろう。
「ムミョンこそ、どうしてここに?」
 セリョンの問いに、ムミョンは声を低めた。
「そなたが怪しい者にさわれるところをあの小間物屋の老人が見ていたと知らせてくれてな」
 だが、あの老人はセリョンの身許を知らないはずだ。彼女の疑問に答えるように、ムミョンが言った。
「昼過ぎにそなたが老人と話していた時、たまたま翠翠楼の娘だと知っている者が近くにいて、老人に教えたらしい」
 これを、と、ムミョンは闇装束の袖から小さな巾着を出した。
「老人はそなたがこれを忘れていって、急いで後を追いかけた。それで、幸運にもセリョンが攫われるところを見たんだ」
 ムミョンが差し出したのは、桜色の巾着だった。
「あ」
 セリョンは小さく声を上げ、ムミョンから巾着を受け取った。逆さにすると、お揃いの月長石の指輪が涼やかな音を立てて落ちてくる。手のひらで受け止め、セリョンは二つの指輪を見つめた。こんなときだけれど、今、言わなければ一生後悔するような気がした。
「ムミョン、これを持っていてくれる?」
「これは?」
 物問いたげな彼のまなざしも真正面から受け止め、セリョンは応えた。
「月の光を集めた石ですって。あのおじいさんがくれたの。あなたと私で持っていなさいって」
 ムミョンが押し黙った。セリョンの手のひらの指輪とセリョンの顔を交互に見つめた。
「俺だって流石に対の指輪を男女が持つ意味、贈られる意味くらいは知っている。そなたは本気なのか?」
 セリョンは深く頷いた。
 ムミョンが笑った。その魅力的な笑顔に、セリョンの鼓動がまた速くなる。
「俺もそなたとは同じ気持ちだ。いつかも話しただろう? 俺は結婚するなら生涯、一人、その女だけを守り抜く。そなたは、そういう意味で俺に指輪をくれたと思って良いんだな?」
 コクリとセリョンは頷いた。ムミョンが更に声を低める。
「詳しい話は後だ。ここに長居をするのはまずい。早く出よう」
 ムミョンが耳許で囁き、セリョンの手を軽く握った。二人はそろそろと周囲を警戒しながら磨き抜かれた廊下をしばらく歩き、玄関らしい両開きの扉から無事、外に出た。
 庭から見ると、屋敷そのものはこじんまりとしていて、さほど大きくはない。やはり本邸ではなく別邸に相違なかった。しかし幾ら別邸とはいえ、玄関には誰もおらず、あまり人気も感じられない。呆れるほどの用心のなさではあるが、かえってセリョンたちが逃げるには好都合である。
 一歩外に出ると、辺りは怖いほどのしじまと闇に満たされていた。記憶を手繰れば、確か町中で攫われたときは昼過ぎだったから、セリョンが思っているよりも長い時間、自分はあの納戸で眠らされていたようである。
 ムミョンの身のこなしは完璧だった。屋敷が小さい割に庭は広く、庭内にはたくさんの樹木が鬱蒼と茂っている。今宵は半月で、月明かりが生い茂った樹々の影を地面に不気味に映し出していた。
 ムミョンはその影を巧みに利用して、物陰から物陰へと移動しセリョンを連れて移動する。その身のこなしには隙がなく、セリョンでさえ彼がただ者ではないのは薄々察せられた。
 セリョンが先刻渡した指輪をムミョンは受け取った。
―俺は結婚するなら生涯、一人、その女だけを守り抜く。そなたは、そういう意味で俺に指輪をくれたと思って良いんだな?
 あの言葉は遠回しではあるが、彼のセリョンへの想いを語っている。つまりはセリョンの想いは一方通行の片恋ではなく、両想いということだ。けれども、何故かセリョンは心が浮き立たなかった。