寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜
「お前の心がたとえ父上に向いているのだとしたら、尚更今ここで俺のものにする必要がある」
まだ愚かしい勘違いをしながら、とんでもないことを言う。
冗談ではない。セリョンの夢は女将に言われるまでもなく、いつか好きになった男の妻となり、幾人かの子どもに恵まれて幸せな家庭を築くことだ。相手が商人であろうが百姓であろうが、恋い慕う男なら誰でも付いてゆくつもりだ。
心から恋い慕う男に出逢うまで、良い加減な気持ちで行きずりの男に身を任せるつもりはない。そして何故か、このときも瞼に浮かんだのはムミョンの端正な面だった。
―私ったら、また彼のことを考えている。
我に返って、セリョンは悲鳴を上げた。テスが間近にまで迫っている。セリョンは今、両手両脚を縛られている状態で、逃げようにも逃げられない。
テスがのし掛かってきて、貌を近づける。接吻(キス)するつもりなのは明らかだ。セリョンは渾身の力で暴れたが、身体の自由がきかないので、芋虫がじたばたと動いているようでしかない。それでも必死の抵抗は男をよせ付けず、テスは大きく舌打ちをした。
「ええい、こしゃくな」
何をとち狂ったか、今度はセリョンの纏うチマを大きく捲りあげる。セリョンは今度こそ悲鳴を上げた。
「いやっ」
チマの下には穿袴(ズボン)をはいているため、直接素肌を見ることはできない。苛立ったテスはそのまま両脚を大きく開かせようとしたものの、この場合、両足首を縄できつく括られていたのがかえって幸いした。
「チッ」
テスはもう逆上してしまって、セリョンの身体を奪うことしか考えていないようだ。脚の縄を解く余裕すら失っているのだろう。今度はセリョンの上衣の襟元に手を掛けて力任せに引っ張ったものだから堪らない。耳障りな音を立ててチョゴリが引き裂かれた。
弾みで引き裂かれたチョゴリの下から、布を巻いた豊かな胸が見える。テスがゴクリと唾を飲み込んだ。美味しそうなご馳走を前にしたような恍惚りとした貌をしている。
「何だ、思ったより良い身体をしているな。胸も大きいではないか。顔立ちが幼いから、まだ身体も子どもだと思っていたがな。こいつは良い買い物をしたようだ」
セリョンの胸元をいやらしい眼で見ながら、一人で悦に入っている。
まるで、気に入った玩具をまんまと手に入れられたとでも言いたげなその口調に、やはり、この男にはセリョンへの愛情は欠片ほどもないのだと改めて判る。テスがセリョンを欲しがるのは、単なる男の所有欲と欲望を満たすためにすぎないのだ。
それでも、今のセリョンはあまりに無力すぎた。せめて手か足かのどちらかだけでも自由になれば、こんな下劣な男の顎を蹴り上げてやるのに。
セリョンは震えながら、じりじりと間合いを詰めてくる男を見上げた。
「そう、その眼だ。恐怖に震えながらもなお屈することを知らぬその強い瞳が俺をそそる」
勝手なことを言いながらテスがセリョンにいよいよ手を伸ばそうとする。
―もう、ここまでだわ。
セリョンは覚悟して眼を固く閉じた。こんなところで、まだ誰にも許したことのない身体を弄ばれる気はない。どうしても逃れられないそのときは自ら死を選ぶのみ―。
だが、その瞬間はいつまでも訪れず、少しく後、セリョンはおずおずと眼を開いた。
テスが苦い薬を無理に飲まれされた表情で立っている。
「良いところだったのに。今でなくては駄目になのか?」
室の扉が開き、細く空いた向こうには下男らしき若い男が畏まっている。
「大監さま(テーガンナーリ)は若さまも今夜はご同席されるようにとのことですので」
「まったく」
テスは未練がましい一瞥をセリョンに向けた。
「まあ、良い。初花を散らすのは、ゆっくりと時間をかける方が楽しみ甲斐もあるというものだ。セリョン、楽しみにしていろ、今夜は眠る暇もないほど可愛がって、この世の極楽を教えてやる」
まだ露わになったままのセリョンの胸から全身に淫らな視線が這わせ、テスは名残惜しそうに室を出ていった。むろん、唯一出入りできる扉も外からきっちりと施錠される音が響いた。
セリョンはホッとして、その場にペタンと座った。身体中の力が抜けてしまったかのようで、指一本すら動かす気力がない。
けれど、気弱なことを言っていては駄目だ。
それにしても、自分は甘かった。翠翠楼でかつてパク・テスはムミョンにこっぴどく伸された。まだひと月にもならない前の出来事である。あれでテスが諦めたと自分は思い込んでいたけれど、実は男は諦めていなかった。
セリョンが一人で外出し、人気のない道に出たところで襲われたことを考えれば、ずっと執拗に追い回していたのかもしれない。
あの男のことだから、人気のない道端でセリョンを襲ったのは本人でなくテスの命を受けた別人の可能性もある。どちらにせよ、セリョンが知らなかっただけで、ずっとつけ回されていたのだとしたらと思ったら、身の毛がよだちそうだ。
「一体、どうすれば、ここから逃げられるのかしら」
一体、どうすれば―。
セリョンが途方に暮れた時、一度はかけられた表の鍵が開く音がした。セリョンはハッと貌を上げる。ほどなく扉が開き、若い男が入ってくる。
「飯を持ってきた」
この声は先刻、テスを呼びに来た下男のものだ。セリョンは下男の様子を慎重に窺った。丸顔でいかにも純朴そうな下男はまだ二十歳そこそこといったところか。多少気は引けるが、生きるか死ぬかの瀬戸際だ、この際、致し方ない。
下男は円い盆に載った汁飯と青菜のおひたしをセリョンの側に置いた。
「食べる間は手を自由にしてやるから」
必要以外は会話してはならないと言いつけられているのか、下男はセリョンの方は見ようとせず、顔を背けるようにして話しかけてくる。
下男が後ろに回って手を縛った縄を解いた。
セリョンはわざと蓮っ葉に言った。
「ねえ、ご飯を食べるより、あたし、愉しいことをしたいんだけど」
「えっ」
下男は愕いたようにセリョンを見て、またハッとしたように視線を逸らす。
セリョンは甘い声音で言った。
「あんたと愉しいことをしたいの、意味、判る?」
「それは」
下男が誘惑に負けて、ついにセリョンを見た。セリョンは極上の笑みを浮かべ、下男を掬い上げるように見つめる。
「ねえ、早くしてよ。早くしないと、若さまが帰ってきちまうよ?」
セリョンの美少女ぶりに惚けたように見蕩れていた下男は我に返ったように眼をしばたたいた。
「冗談じゃねえ、お前は若さまの女だ。そんなことをしたら、俺は若さまに殺されちまう」
下男は蒼白な顔で首を振る。セリョンはあとひと押しとばかりに迫った。
「大丈夫だよ。さっさと事を済ませれば、若さまにも判りゃしない」
「でも、お前は生娘なんだろう。若さまはああ見えて遊び慣れて女の身体もよく知ってなさるから、若さまがお前を抱けばすぐに生娘じゃないと判るぜ」
セリョンは妖艶な笑みを浮かべた。
「あんた、あたしが生娘だって信じてるのかい?」
けたたましく笑い、婉然としたまなざしで下男を射すくめる。
作品名:寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜 作家名:東 めぐみ