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寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜

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 でも、対の指輪を男性に渡すなんて、あまりに恥ずかしすぎる。それでは言葉にせずとも?好きです?と告白しているようなものだ。老人には申し訳ないが、セリョンには到底、ムミョンに渡す勇気はなさそうだ。
 セリョンは二個の指輪を財布代わりのうす桃色のチュモニに入れ、袖にしまった。
―だとしても、お揃いの指輪というのも悪くはないわね。
 渡す勇気もない癖に、自分とムミョンがお揃いの指輪を填めているところを想像してしまう。まったく、自分でも何をどうしたいのか判らない。ムミョンのこととなると、どうも正常な思考が働くなってしまうようで、心許ないことこの上なかった。セリョンが愉しい空想(妄想ともいえるかもしれないが)に浸りきっていたそのときだった。
 ふいに背後から口許を大きな手で覆われた。
―な、何なの?
 口許だけではない、抱きすくめられ、すべての動きを封じ込められてしまった。セリョンは慌てて助けを求めようとしたが、生憎と既に目抜き通りを抜け、人通りの少ない路地に差し掛かろうとしていた。お揃いの指輪だ何だと浮かれていたのが仇になってしまったのだ。
 素早く視線を巡らせても、細く伸びる道に人影はない。
 一瞬だけ、口を塞いだ手が離れた隙に叫ぼうとするも、すぐにまた柔らかな布で口を塞がれた。
「―!」
 ツンとした刺激臭が鼻をつき、クラリと眼が回る。セリョンの膚が粟立った。もしかしたら、自分は眠り薬か何かをかがされた?
 まだ思考が働いている間は良かった。彼女の意識はほどなく底なしの黒い闇に吸い込まれてゆく。暴れた拍子に、指輪が入ったチュモニが袖からすべり落ちたことに気づくはずもなかった。

「う―ん」
 セリョンは濃い翳を落とす長い睫をかすかに震わせた。意識が深い水底(みなそこ)から徐々に浮上してくるような感覚がある。ゆっくりと眼を開けば、ぼんやりと薄い幕がかかった視界も意識と共に少しずつ鮮明さを取り戻す。
 ハッとして周囲を忙しなく見回すと、どうやら、セリョンは見知らぬ場所―さして広くはない一室に閉じ込められているようだ。手脚を動かそうとしても、動かない。よくよく見れば、両手は縄で後ろ手に縛られ、脚も同様にきつく縛られていた。
「一体、私が何をしたっていうのよ」
 セリョンはぶつくさ言いながら、もう一度注意深く室内を見回す。この室は納戸代わりに使われているようで、使わなくなった卓や椅子が片隅に堆く積み上げられている。
 調度類は使われなくなって久しく、どれも埃を被っているが、見たところ紫檀でできたもの、見事な螺鈿細工の飾り棚など、明らかに清国渡りの名品と見られるものも混じっている。
 飾り棚の上には、複雑な文様を一面に刻み込まれた青磁の壺やギヤマンと思しき優雅な鶴首の酒器まであった。
 となれば、導き出される応えは一つ、ここはかなり羽振りの良い者の屋敷ではないかということだ。少なくとも、自分を攫ったのは身分と金のある者と考えて良いだろう。
 セリョンの思考はそこで途切れた。いきなり眼前の扉が開いたからである。
 彼女は入ってきた男を見て愕然とした。
「あなた―」
 彼女の眼の前に立ち横柄に腕を組んで見下ろすのは、あの戸曹判書の息子パク・テスだった。
「やっと目覚めたか、俺の麗しの眠り姫よ」
 見栄えの良い男が言えばそれなりに決まるだろう科白も、この男が口にすれば道化芝居の一幕でしかない。
「一体、どうして、こんなことを?」
 セリョンがにらみつけてやっても、男はいささかも怯むところはなかった。
「知れたこと、そなたを俺の花嫁にするためだ」
「馬鹿なことを言わないで。何で、そうなるの。私はあなたの奥さんになるなんて言ったつもりもないし、第一、この間、きちんと断ったじゃないの」
 今までは翠翠楼の上客だと思っていたから、物言いも態度も控えていた。けれど、こんな阿呆男にへりくだる必要もない。
 パク・テスは気障ったらしくチッチッと舌打ちしながら眼の前で人差し指を振った。
「俺は生まれてから二十四年というもの、欲しいものを手にいれられなかったことはない。父上は望めば何でも与えてくれた。さりながら、俺ももう童ではない。欲しいものは自分で手に入れられる大人だ!」
 セリョンはテスの言葉に引っかかりを憶えた。なので、問うた。
「父君の戸曹判書さまには縁組みのことは話したの?」
 テスが途端に不機嫌になった。
「ああ、もちろん話したとも。だが、父上も今回ばかりは承知して下さらなかった。翠翠楼の娘のことは諦めろとの一点張りだ。ゆえに、俺は自分でそなたを手に入れることにしたのだ!」
 ペラペラとよく喋る、本当に愚かで浅薄な男だ。が、今はこの愚かさがセリョンには何よりありがたい。セリョンは続けた。
「今まで何でもあなたの頼みをきいてくれた戸曹判書さまが何故、縁談については耳を貸さなかったのかしら」
 案の定、テスは誘導尋問にあっさりとかかった。
「どうやら、父君は今、重大な任務を国王殿下から任されているらしい。そのような大切な時期に妓房の娘との縁談をごり押しして表沙汰になってはまずいと仰せであった」
「国王殿下のご信任も厚いなんて、流石は戸曹判書さまね。重大な任務って何なのか、気になるわ」
 鎌を掛けてみたが、テスはいかにも興味なさそうに言った。
「俺は知らん。考えてもみろ、そんな重大な機密事項をたとえ息子とはいえ、父上が易々と洩らされるはずがなかろう?」
 と、これは、この男にしては至極真っ当なことを言った。
 テスはその話に完全に興味を失ったようで、ズイとセリョンの方に身を乗り出してくる。
「というわけでな、そろそろ観念して、俺の嫁になれ、セリョン」
「あら、若さま、お父上が反対されているのに、私を嫁なんかにしたら、まずいのではないの? 戸曹判書さまに叱られるわよ?」
 この愚かな男が武官としてそれなりの地位にあるのも、すべては父親の威光と七光りのお陰である。つまり、テスは父親には頭が上がらない。戸曹判書を出せば、テスの頭も多少は冷えるかと思ってだ。
 が。この目論見は見事なまでに外れた。テスの中には普段から超えられない偉大な父親への畏怖と引け目(コンプレツクス)が複雑に同居している。この場合、セリョンのひと言がテスのコンプレックスを不用意に刺激してしまった。
 果たして、テスの不健康なほどに白い貌が蒼くなった。
「先ほどから、そなたは親父のことばかり言うが、よもや、そなたは俺より親父の女になりたいのか?」
 何とも見当外れのことを言われ、笑い出したくなるのを堪えた。戸曹判書は翠翠楼の馴染みというほどではないが、これまでに何度か両班同士の宴会で登楼したことはある。ゆえにセリョンもテスの父親の貌を知らぬわけではない。
 でっぷりと超えて頭髪が薄くなったその姿はテスをそのまま年を取らせたようで、お世辞にも男前とは言い難い。人柄はさほど悪くはないようで、相手をした妓生たちからも特に何もきかなかった。妓楼では、しつこくねちっこい客、金払いの悪い客は嫌われる。
 笑いをかみ殺した次の瞬間、しかしセリョンは背筋に氷塊を入れられた心地がした。
 テスが独占欲を滲ませた眼でじいっと見つめていたからだ。