寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜
―約束する。面倒を見るよ。
―もし約束を守れなかったら、あんたと猫と纏めて出てって貰うからね。
という案配で、何とか子猫は翠翠楼の新たな居候となることができた。セリョンは新入りにいつものように?六?と安易な名を付けた。
ムミョンが下がった後、セリョンは女将に引き止められた。
―セリョン、ちょっと私の室に来ておくれでないか。
呼ばれていった女将の仕事部屋で、セリョンは母に問われた。
―お前、今日はずっとムミョンと一緒だったのかい?
―絹店の帰り道にたまたま出逢って、一緒に帰ってきたの。
―それにしては随分と遅かったね。
いつも直裁に物を言う母にしては珍しい。セリョンは小首を傾げ母を見つめる。
女将は深い息を吐き出し、あらぬ方を見つめた。
―お前が見世を出たのは昼前だったし、あんまり帰りが遅いものだから、使いをやったんだよ。
母は帰宅の遅いセリョンを案じたらしい。セリョンが口を開こうとしたのと、母が言葉を発したのはほぼ同時だった。
―セリョン、私がお前を妓生にしなかった理由を判っているだろうね?
―はい。
頷く娘を見て、女将はまた息をついた。今度の溜息は先刻より更に深かった。
―私はお前には幸せになって欲しい。まっとうな男に嫁いで子を産んで、ちゃんとした家庭を持って欲しいんだよ。間違っても、得体の知れない、どこの馬の骨とも知れない男にお前を渡すためじゃない。
― ―。
セリョンは言葉を失った。女将は言い含めるように言った。
―おっかさんの言うことの意味が判るだろうね。お前は賢い子だ、セリョン。
女将は小さく首を振った。
―確かに良い男だ。うちの見世の妓生たちまでもがあの男に今やすっかりのぼせ上がっちまってる有り様だからね。女はああいう翳のある男には弱いのさ。何か謎めいているような気がしてね。見栄えだけじゃなくて、腕っ節も相当立つ。だけど、ああいう類の男は、底が知れなさすぎて危険すぎる。
誰がとは言わずとも、女将が誰のことを言っているのかはセリョンにだとて知れた。
―良いかい、どんなことがあっても、あの男にこれ以上深入りするんじゃないよ。
奇しくも、翠翠楼の稼ぎ頭ファオルと女将がまったく同じことをセリョンに言い続けている。二人ともに苦界で生きてきて、男に泣かされてきた女をたくさん見てきた人たちだ。
セリョンだとて、遊廓で育ったゆえに、多少の人の機微は理解できるつもりだ。思うに、セリョンはムミョンが皆の言うほど危険な男には見えない。昨日、彼自身から哀しい生い立ちを聞いたから、余計にそう思えるのかもしれないが。
「お嬢さん?」
また呼ばれて、母との会話を思い出していたセリョンは我に返った。
「ごめんなさい。ついぼんやりしてしまって」
八百屋の若者は笑った。
「猫は元気にしているかい?」
「ええ、食欲もあるし、どんどん大きくなっていってるわよ」
「そうかい、それを聞いて安心したよ。面倒を押しつけちまったようで、申し訳ないと思ってる」
「気にしないで」
セリョンは笑顔で言い、また歩き出した。
しばらく歩くと、小間物屋が見えてくる。今日もあの小間物屋は同じ場所に店を出していた。
背がやや曲がった老人は、今日も暇そうに露台の前に座っている。
「おじいさん、こんにちは」
気軽に挨拶すると、老人が?お?といいたげに皺に埋もれた細い眼をまたたかせた。
「今日は一人かい、お嬢さん」
「ええ」
朗らかに頷くセリョンに、老人が孫を見るように眼を細める。老人の眼がセリョンの胸元で止まった。
「あの水仙を付けてくれてるんだね」
「とても素敵で、気に入ってるの」
ムミョンが贈ってくれた水仙のノリゲはあれからずっとチョゴリの紐につけている。簪は目立つので、自室の飾り棚の引き出しに大切にしまっていた。
「あのノリゲと簪は見て判るだろうが、対になっている。無名の若い職人の手になるものでね」
「そうなの? 名もないとは思えないほど精巧で、よくできていると思うけど」
「まだ若いからね。その中、もっと名が広く知られるようになったら、値打ちが出てくるよ。大切に使うと良い」
「そうするわ」
セリョンの視線が露台の片隅に注がれる。そこには、小さな籠に山盛りになった指輪があった。
老人が笑いながら言った。
「指輪が欲しいのかい」
「ううん、生憎と今日は持ち合わせがなくて」
妓房の雑用をして得る収入は知れている。その点、女将はきっちりとしていて、セリョンを特別扱いはしない。翠翠楼では賃金は働いただけ与えられるというのが原則だ。
今日はこれから絹店に行って晴れ着を新調する予定なのだから、余計な出費は控えたいところだ。
老人が顎下にたくわえた白い髭を撫でた。
「この間のお礼だ。指輪はおまけにしておくよ。どれでも好きなものを持ってゆきなさい」
「でも、それは」
躊躇うセリョンに、老人が笑い声を立てる。
「無名の職人の細工だとはいえ、あれは本物の玉(ぎよく)を使っておるから、うちのような見世では高級品になる。高価な品を二つも買い上げてくれたのだから、遠慮は要らんよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
セリョンは一番上の指輪を選んだ。見た目が先日、ムミョンが贈ってくれた水仙の花びらに使われている石と似ていたからである。
老人が頷いた。
「これは月長石じゃな、この間、若いのが買ったノリゲや簪と同じ石を使っておる」
「やっぱり、そうなのね」
セリョンは嬉しくなった。老人は籠の下方に手を突っ込んで?んだものを差し出した。
「これも持ってゆくと良い」
「まあ、二つも頂くなんて」
流石に厚かましすぎだと遠慮したら、老人は声を上げて笑った。笑うと細い眼が更に細められなくなるようで、大きく開いた口からは前歯の一本が抜けたのが見える。
「お前さんが選んだのは女物の指輪で、こちらは男物じゃ」
「え―」
予期せぬ老人の説明に、セリョンは物問いたげな眼を向ける。
「お前さんとあの若いのと二人で持つと良い」
老人は指輪を手のひらに乗せ、陽の光にかざした。すると、小さな指輪がまばゆい燦めきを放った。
「綺麗だわ」
セリョンは思わず感嘆の声を上げる。老人が深く頷いた。
「この石は月長石といってな、月の光を意味する。月の光は離れた場所にいる人間同士を結びつけるといわれておる。お前とあの若者が身につけておれば、きっと結びつけてくれるはずじゃ」
「おじいさん、私と彼は、そんな関係では」
言いかけたセリョンに、老人が欠けた歯を見せてニッと笑った。
「年寄りの言うことは黙って聞いておくものだ、お嬢さん」
結局、セリョンは老人から対(ペア)になった指輪を押しつけられる形で貰うことになった。
―月の光が離れた場所にいる人間同士を結びつけてくれる、か。
何とも浪漫的(ロンティック)な話ではあるが、本当にそんなことがあるものなのか。年頃にしては現実志向のセリョンはいささか懐疑的である。
―でも、実現したら嬉しいかも。
またしても、このときに思い出したのはムミョンの端正な顔だった。
作品名:寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜 作家名:東 めぐみ