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寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜

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「だが、今は本当の名は知られたくない。そなたにだけは教えるが、翠翠楼の他の連中には?ムミョン?で通すから、女将にも内緒にしておいて欲しい」
 ムミョンの本当の名前を心で唱えながら、セリョンはボウとした頭で頷いた。もしかしたら、自分は?恋?をしたのだろうか。
 セリョンの腕の中でニイィと啼き声が上がる。ふと腕の中を見れば、真っ白な毛並みの子猫が抗議するかのように暴れていた。無意識の中に腕に力が入り、子猫をきつく抱きしめていたようだ。猫にすれば迷惑以外の何ものでもないだろう。
「ごめんね」
 セリョンはつぶらな瞳で見上げてくる子猫の頭を指の腹でそっと撫でた。どうしてだか、子猫の黒い無心な瞳とムミョンの翳のある瞳が一瞬、重なって見えた。
 あの男に纏いついて離れない翳りは、幼少期の生い立ちにあるのかもしれない。生母は彼が幼くして自害し、義母や異母兄に虐げられたのだと語ったムミョン。
 彼が時折見せる翳りをセリョンでは拭うことはできないのか。いや、拭えずとも、せめてわずかなりとも軽くしてあげられたら。
 そんなことを考える自体、厚かましいのかもしれない。またニィニイと啼き声が聞こえるのも今度は耳に入らず、セリョンは子猫を強く抱きしめていた。
 そこにいきなり大きな林檎が飛んできて、セリョンは愕いた。咄嗟に眼の前で受け止める。
 向こうでムミョンが笑っている。
「露店で売っているにしたら、なかなかだろ? 食べてみろよ、美味しいぞ」
 ムミョンはいつもの愁いなど感じさせない様子で林檎を囓っている。セリョンは苦笑して、自分もひと口林檎を囓ってみる。ムミョンのくれた林檎は甘いようで酸っぱさが混じっていて、今の自分のムミョンへの気持ちに似ているようだ。
 彼のことを考えると、胸が苦しくなる。それを親友は恋の始まりだと言っていた。ムミョンの貌を思い出しただけで、嬉しいような泣きたくなるような相反する感情がせめぎ合う。
 自分でも心のありようが今一つ掴めていない、そんなもどかしさがあった。 



  発覚
 
 その日は生憎と朝から漢陽は今にも泣き出しそうな空模様だった。分厚い鉛色の雲が幾重にも折り重なり、都に覆い被さってくるようだ。低く迫った空はいかにも真冬らしく、眺めているだけで陰鬱になるようである。
 都の名所と呼ばれる郊外の丘では、早春の訪れを告げる水仙が満開で見頃だというのに、季節はまた冬に逆戻りしたみたいだ。とはいえ、セリョンの心は今日の空とは裏腹に、何とはなしに浮き立っている。
 今、彼女は二日前にムミョン―どうやら、本当の名はイ・ホンというらしいが―と一緒に歩いた都の目抜き通りにいた。今日はムミョンと一緒ではなく、一人である。今日も二日前に訪れた布屋に行く途中だ。
 ムミョンに言われたからというわけではないけれど、今日は妓生たちの衣装ではなく自分の服の仕立てを頼みにいくところだ。二日前、翠翠楼に帰ってから、セリョンは自分の部屋で考えてみたのだ。
 確かに十六歳、一応は年頃と呼ばれる年齢なのだから、もう少し身綺麗にした方が良いのかもしれないと改めて思ったのだ。
 セリョンは華美なものがあまり好きではない。なので、衣服も普段は慎ましいものしか身につけないのだが、確かに妓房の娘にしてはいささか地味―どころか質素すぎるかもしれない。妓生ではなくとも看板娘という言葉もあるほどだから、見世の体面を考えれば、これからは少しは華やかに装った方が良いのだろう。
 基本、母はセリョンが纏う服について口出しはしない。だから、セリョンは今まで自分の好きなようにふるまってきたのだ。けれど、自分は翠翠楼の女将の娘だ。妓楼の娘があまりに野暮ったいなりをしているのは考えものだ。
 セリョンは考え直し、せめてもう少し華やかな服を一枚なりとも作ろうと翠翠楼を出てきた。途中で何度も
―これはムミョンに言われたからじゃないんだから、私が自分で考えて出した結論よ。
 と、自分自身に言い訳のように繰り返しているところが我ながら情けない。
 今日は南方産だという珍しい柑橘類を籠に入れ、風呂敷で包んで持参している。昨夜、翠翠楼の常連である両班の隠居から女将に贈られたものだ。絹店の行首の娘―セリョンの親友は今、妊娠三ヶ月で悪阻のまっただ中らしい。松の実粥も喉を通らないと聞いて、女将に頼んで分けて貰った。
 酸味がほどよくある果物であれば、悪阻に苦しむ妊婦でも食べられるだろう。そこで、セリョンは溜息をつく。
 我が身が身籠もるなんて今はまだ想像もしないが、一体いつのことになるのか。大体、妊娠するには相手がいなければならず、そんな相手など朝鮮中どこを探してもいやしない。
 と、ふいに眼裏に一人の男の精悍な面が鮮やかに浮かび上がって消えた。
「わ、私ったら何を考えているの」
 心で呟いたつもりだったのに、口に出してしまっていたようである。向こうから歩いてきた中年の男がセリョンを見て露骨に眉をしかめて通り過ぎた。
 どうやら、怪しい、頭が少しばかりイカレた娘と勘違いされたようだ。恥ずかしさに紅くなり、ムミョンの面影を追い払うように勢いよく首を振る。
 それにしても、自分がいつ身籠もるのかと考えてムミョンを思い出すなんて、本当にどうかしている。彼のことをどうやら自分は好きになりかけているらしいのだが、だからといって、話が飛躍しすぎだ。ムミョンにも女の好みというものがあるだろうし、彼にすれば良い迷惑だ。
 セリョンが紅くなったり蒼くなったりしている時、ふいに声がかけられた。
「娘さん(アガッシ)」
 最初は気づかず、何度めかに漸く我に返った。セリョンの斜向かいには、八百屋の若者が露店を出していた。セリョンは行き交う人並みをよけつつ、通りを横切って八百屋の前に立った。
「こんにちは」
 挨拶すると、八百屋の若い店主も笑顔になる。
「この間は、ありがとう」
 セリョンは、はたと当惑した。何故、改まって礼を言われるのか判らない。が、ややあって、ムミョンがこの店で林檎を買ったのを思い出す。
「あの林檎、とても美味しかったわ」
 笑顔で返すのに、八百屋は破顔した。
「林檎を買ってくれたのもありがたいけど、そうじゃない。子猫を引き取ってくれただろう」
「ああ」
 セリョンは頷いた。あれから翠翠楼に帰った後が大変だった。女将はセリョンの腕の中を見て仰天した。
―まさか、また、うちで飼うなんて言い出すんじゃないだろうね。
 眼をくるりと回し、女将はセリョンを睨みつけた。
―今でさえ五匹の犬猫の世話には閉口してるんだよ。
―お願い、おっかさん、一生に一度のお願いだから、可哀想なこの子をうちで飼わせて。
 両手をすり合わせて拝む仕草をする娘に、女将がやれやれと首を振った。
―また、お前の?一生に一度のお願い?が出たね。
 傍らからムミョンも口添えしてくれた。
―女将、そいつの面倒は俺が見るから、セリョンの頼みをきいてやってくれないか。
 女将はムミョンをジロリと見て、
―本当に責任持って面倒を見られるのかい? まだ子猫だから、きちんと世話をしてやらないと病気になったり死んじまうよ?
 厳しい口調で言った。ムミョンはしっかりと女将の眼を見て頷いた。