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寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜

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 ムミョンは怒ったように言い、一人で勝手に先に歩いていってしまう。セリョンは手のひらに載ったノリゲと簪を見た。ノリゲと簪は白い水仙を象った意匠(デザイン)で、水仙の花びらの部分に月長石(ムーンストーン)がはめ込まれている。玉の色は透明に近い白にも、光の当たり加減では淡い黄色にも見える。ノリゲの先の長い房は黄なりから徐々に下にいくにつれて淡い黄色に染められていて美しい。
 セリョンは上衣の紐にノリゲを結び、髪に簪を差した。
「待って、ムミョン」
 元気よく言って、ムミョンの長身を追いかける。
 またムミョンが立ち止まって店を冷やかしている。追いついたセリョンが背後から覗くと、どうやら八百屋らしい。
「毎度、ありがとうございます」
 ムミョンが艶やかな林檎を二つ、金と引き替えに受け取っているところだった。
 若い露天商の威勢の良い声に混じり、ニィーとか細い啼き声が聞こえた。
 セリョンは二十歳そこそこの若者に訊ねる。
「猫がいるの?」
「ああ、俺が今朝、ここに来たときからずっといるよ」
 丸顔の人の良さそうな青年が足下を指すと、売れた野菜が入っていたのであろう空き籠が彼の後ろに山積みになっていて、その合間から小さな猫が貌を出していた。
「可哀想に捨て猫らしい。どうしたものか、俺ンちはそれこそ赤ン坊が生まれたばかりで、猫なんて構ってる余裕もなくてさ」
 困惑したように言う若者に、セリョンはすかさず言った。
「私が貰っても良い?」
「おいおい」
 ムミョンがセリョンの肩を?む。
「良いのか? 女将に叱られるんじゃないのか」
 八百屋の若者は、もうすっかり、その気だ。
「助かるよ、俺もこのまままた置いて帰るのは気が引けてさ」
 セリョンは若者から子猫を受け取った。
「よしよし、良い子ねぇ」
 まるで人間の赤児を抱くような手つきで腕に抱き、子猫をあやすセリョンを見て、ムミョンが吐息混じりに言う。
「そうやっていると、すぐにでも母親になれそうだけどな」
 先ほど男と女のこともろくに知らないと言われたことを思い出し、セリョンはつんと顎を逸らした。
「子どもっぽくて、悪かったわね」
 子猫は生後一ヶ月くらい、真っ白な毛並みの可愛い猫である。
「牛が猫に早変わりしたな」
 ムミョンの表情には晴れやかな笑みが浮かんでいる。その曇りのない笑みに、セリョンの鼓動が跳ねた。
 刹那、セリョンは首をひねった。
 一時期、彼女は今日、妓生たちの衣装を受け取りにいった布屋を手伝っていた。その際、仕立てや商いについてもあれこれと教わったのだが、布屋を率いる商団の行首の娘がセリョンと同じ年で、親友のように仲良くなった。
 その時、行首の娘がそっと耳打ちしたのだ。
―私、副行首を好きなの。
 副行首というのは、どう見てもセリョンたちよりひと回り近くは年上に見えた。男前といえなくもないが、セリョンにすればどこがそこまで魅力的なのかは判らなかった。
―彼を見ているだけで、ときめくの。
―ときめくって?
 訊ねたセリョンに、同い年の親友は、何も知らないねんねなのね、とでも言いたげに言ったものだ。
―その人の顔を見ただけで、胸の辺りの動悸が速くなって息苦しくなるのよ。
―死んじゃうの?
 セリョンが顔色を変えると、少女は大人びた微笑を浮かべた。
―馬鹿ね、恋をして死ぬわけがないでしょう。
 今、その親友は念願叶って、副行首の妻となり、早くも二人めを妊娠中である。彼女の父行首も最初は年の差に難色を示したものの、一人娘で婿を迎えるしかなかったため、長年自分の片腕として働いてきた副行首と娘が一緒になって商団を継がせることができて、かえって歓んでいるという。
 あのときの親友とのやりとりを思い起こし、セリョンは内心考える。
 もしかして、これが?ときめく?ってことなのかしら?
 その辺り、それこそ初心で奥手なセリョンにはまったく判らない。ただ、今の自分の心持ち―ムミョンを見ていると胸が苦しくなるというのは、どうも親友が言っていたあの恋の症状と似ているような気がしてならない。
 彼の屈託ない笑顔を見ながら、セリョンはひそかに思った。
―いつもそんな風に明るく笑っていれば良いのに。
 ムミョンはひっそりと淋しげに微笑むより、きっと今のように晴れやかに笑う方が彼らしいはずだ。この前はムミョン自身に
―俺のこともろくに知らない癖に。
 と言われたけれど、今日、彼が誰にもしたことがない身の上話をしてくれたことで、彼との距離が一挙に縮まったようだ。そのことが、セリョンはとても嬉しく、心が温かくなるようだった。
 と、ムミョンの明るい声が耳を打った。
「参ったな。また雪か」
 彼に倣って見上げると、輝いていた太陽がいつしか雲の向こうに姿を隠して、白い雪がちらちらと舞っていた。
 今日は二月にしては暖かく、セリョンは毛織の胴着を来てこなかったことを悔やんだ。
 ふいに、フワリと何かが肩から掛けられ、愕いてムミョンを見上げる。視線の先には、彼の照れくさそうな笑顔があった。
「俺ので良かったら。少しでも暖かい方が良いだろ」
 ムミョンが自分の真綿入りの上着を着せかけてくれたのだ。セリョンが思わず微笑むと、ムミョンの貌に朱が差した。
「そっ、そんな可愛い貌で見るなよ。妓房に来る客にそんな貌を見せたら、また、この前みたいに男に襲われるぞ」
 ムミョンが早口で言い、それからハッとしたような表情になった。
「簪、付けてくれたのか」
「ええ、ありがとう。とても素敵。これから春が近くなって水仙の花もたくさん咲くわね」
 まだ嫁入り前のセリョンは長い髪を一つに編んで後ろに垂らしている。ムミョンがその髪にそっと触れた。
「綺麗な髪のことを雲鬢(うんびん)というそうだ。セリョンの髪も艶があって美しいな」
 特に容姿そのものを褒められたわけでもないのに、?美しい?と言われただけで、セリョンの鼓動はまた速くなる。
「そう、かしら」
 何気なく自分の髪を触ろうと伸ばしたセリョンの指先と彼女の髪を触っていた彼の指先が束の間触れあった。
 一瞬、感じたのは何だったのか。まるで二人ともに途方もなく熱いものに触れ、火傷でもしてしまったかのように慌てて離れたけれど、離れた後もその熱は治まるどころか、ますます熱さを増してゆくようだった。
 指先から感じた熱は今やセリョンの頬ばかりか、全身にひろがってゆくようで、あたかも全身を炎にあぶられているかのようだ。
―その人の顔を見ただけで、胸の辺りの動悸が速くなって息苦しくなるのよ。
 かつての親友にして、今は初恋の男の妻となり、母となっている少女の言葉がまざまざと耳奥で甦る。
「―憲(ホン)」
 ムミョンが何か言っている。一瞬、親友のことを思い出していたセリョンは弾かれたように面を上げる。
「俺の本当の名はホンだ」
「―ホン」
 セリョンは彼の名を呼んだけれど、それは吐息のような囁きにしかならない。
「イ・ホンというのが真の名前なんだ」
 イ・ホン。セリョンは何度も彼の名前を心の中で繰り返す。その度に、セリョンの小さな胸は烈しく打ち、呼吸が苦しくなってくるようだ。