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寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜

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 ムミョンがクッと呻いた。セリョンは彼が今、泣いているのだと判ったけれど、敢えて言わなかった。彼もあからさまに指摘されたくはないだろう。
「あなたの本当の名前は?」
「いっそ本当に名前がなんてない方が良かった」
 ムミョンはやはり本当の名前は言わなかった。
「母が亡くなった後、俺は正室に引き取られて育てられたけど、義母はいつも俺と兄を分け隔てしたんだ」
「ムミョンにはお兄さんがいるのね」
 その指摘に、ムミョンは世にも哀しげな貌で頷いた。
「半分だけだが、確かに血の繋がった兄と呼べる人はいる。でも、兄も同じだ、義母と同じで俺を憎んでいる」
「お父さまはムミョンが虐められているの見て、何も言われなかったのかしら」
 気になるのはそこだ。側室の子とはいえ、可愛い我が子である。幼くして生母を失い、父親であれば息子を不憫だと思うはずだ。もしかしたら、父親は息子が正室にいびられているのを知らなかったのか。
 セリョンの思惑は的中していたらしい。
「父は知らなかった。義母はいつも父の前では貞淑で優しい慈母を装っていたから。母を虐めているときもそうだ。ゆえに、父は母が正室にいびり殺されたとは露ほども思ってはいない」
 ムミョンは語った。十になるかならない頃、ムミョンは乳母に伴われ、正室の住む母屋に挨拶に行った。丁度、居室には正室と異母兄がいて、異母兄はおやつを食べているときだった。
 珍しい焼き菓子を見て、ムミョンは食べてみたかった。しかし、ムミョンの前で兄は皿に載っていた菓子をすべて平らげ、最後の一個を半分ほど囓って投げてよこした。
―お前にはこれをやる。
 兄は六つ年上で、その時、十四歳くらい。子どもながら正室に倣って、ぞんざいな口調で菓子を放り投げたのだ。
「俺は投げられた菓子を?んで兄の貌に投げ返してやった。子どもながら、身体が燃えるような悔しさと屈辱だった。さりながら、義母は俺が食べ物を粗末にしたと、その場で俺の脚を鞭で何度も打ち据えた。兄は嬉しげに俺が打たれる様を側で眺めていたよ」
「酷―いわ」
 セリョンの眼に悔し涙が滲んだ。
 ムミョンがフと笑った。冬の陽に照らされたその横顔はとても淋しげで。セリョンの心は引き絞られるように痛かった。
「まさに、あの母にして息子ありという親子だ。父はそんな義母の裏の貌は一切知らない。それでも、母が生きていた頃はまだ良かったんだ。俺は母のところにいたし、父は正室より母を愛していたから、母の許にもよく来て俺を可愛がってくれた。多分、義母は母が許せなかったんだろう。母は両班の娘で、庶子というわけでもない。それでも、実家は逼塞した名ばかりの両班で、功臣の末裔である義母は名門の息女だった。そんな義母は自分より身分の低い母が父に愛されるのが腹だたしくてならなかった。おまけに俺なんかが生まれたものだから、化け物を産んだ賤しい女だと罵られた挙げ句、母は最後には精神に異常を来して亡くなった」
「まさか」
 セリョンの言葉に、ムミョンが頷いた。
「母はいびられるのに耐えられず、ある日、庭の樹で首を吊って自ら亡くなった」
「そんな」
 セリョンは唇を震わせた。幼いムミョンや彼の母が受けた数々の言われなき仕打ちを考えただけで、自分のことのように哀しく涙がこぼれる。
「身分のある男というのは、大抵妻一人だけでなく大勢の側室を侍らせる。父はまだしも義母と母と二人だけしか妻はいなかったが。それでも、義母は母という存在が許せなかった。きっと母を虐めていた義母も苦しんではいたろう。鬼のような形相の義母と、泣いてばかりいる母を見ながら、俺はたくさんの妻を持つことは結局、妻たちを苦しめるだけだと早くに悟った。兄はまだ十代の頃から十指に余る側室を持っているが、セリョン、俺は母が哀しむ様を見てきたら、もし将来、自分が結婚するとしても、側室は持たない」
 セリョンは深い溜息をついた。
「私はまだしも幸せだったのね。捨て子だったけど、おっかさんが実の娘として育ててくれたから」
 ムミョンは頷いた。
「女将とセリョンを見ていると、つくづく親子の絆について考えさせられるよ。親と子を結びつけるのは、けして血の繋がりだけではないのだと判る。俺にはつくづく羨ましい話だ」
 ムミョンは長い話を終え、つと手を伸ばす。その長い指先がさっとセリョンの目尻から頬に触れた。
「俺のために泣いてくれて、ありがとうな。つまらない話だったろうに」
 それで、セリョンは彼が涙を拭ってくれたのだと初めて知った。何故か、こんなときなのに頬が熱い。先刻、彼に人前で抱き上げられた時、彼の逞しい身体を見たときの熱がまた戻ってきたかのようである。
 まだ熱を持てあましているセリョンを尻目に、ムミョンが屈託ない声を上げた。
「あっちだ」
 ムミョンに手を引かれ、セリョンも小走りに歩き出した。
 彼がセリョンを連れていったのは、大路にある露店の一つだった。そろそろ傾き始めた冬の陽射しを受けて、つり下げられたノリゲが煌めいている。間近に寄って見ると、キラキラと輝いているのはノリゲにあしらわれた宝玉だった。
 店先には無数の色鮮やかなノリゲがつり下がり、かすかな風に揺れている。
「話を聞いてくれた礼がしたい。どれでも欲しいものを言ってくれ」
 廓の用心棒の給金はその日毎に支払われる。なので、ムミョンも幾ばくかは持ち合わせがあるのも判るのだが。
「気持ちだけ貰っておくわ。話を聞いただけで、私が何かの役に立ったわけではないのに」
 セリョンが辞退すると、ムミョンはムキになった。
「俺が買ってやりたいんだ。俺が身の上話をしたのも、聞いてくれたのもそなたが初めてだから」
 口早に言ったムミョンはさっさと露店を出している老爺に近づきいた。
「あれとあれをくれ」
 つり下がっているノリゲと棚にたくさん山積みになっている簪の中から一つを?む。どう見てもよく見もせずに選んだといった感じである。袖から出した巾着から銭を出して払っている。よくよく見ると、後ろ姿なので表情は見えないが、彼の耳は真っ赤だった。
 恐らく、女の装飾品を買ったことなどないのだろう。先刻、セリョンに男女のことも知らない初心な娘だと言ったけれど、彼だって似たようなものなのかもしれない。
 ムミョンはセリョンの側に戻ってくると、無造作にノリゲと簪を突きだした。
「恥ずかしすぎて、ろくにどんなものか眼に入っちゃいなかったんで、気に入るかどうか判らないが。今はこんな安物しか買ってやれないが、その中、もっと立派ものを贈る。出世払いっていうことにしておいてくれ」
「本当に良いの?」
 おずおずと見上げると、ムミョンが男らしい眉を下げた。
「かえって受け取って貰えなかった方が傷つくだろうが。それこそ兄なぞ正室、側室に金に糸目をかけず、こんなものを与えているぞ。俺はその心境が理解できなかったが、今日は兄の気持ちが少しばかり判ったような気がする」
「何が判ったの」
「それはだな、男は好きな女ができると―」
 言いかけ、ムミョンは盛大な咳払いをした。
「いや、何でもない。今のは聞かなかったことにしてくれ」
「通りを行く人の話し声で、聞こえなかったけど? 何て言ったの」
「だから、もう良い」