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寵愛〜隻眼の王の華嫁は二度、恋をする〜

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 あの時、負け知らずのキョンボクは初めてムミョンに打ち負かされ、自棄になっていた。そんなキョンボクを更に煽るようなことを言ったムミョンに対して、セリョンは?あなたらしくない?と言ったのだ。
 ううん、と、セリョンは首を振った。今なら素直に胸の内が伝えられそうな気がして、ひと息に言った。
「あのときは私も言葉が足りなかったと思う。あなたの言うとおりよね、私はムミョンについて何も知らないのに、あんなことを気安く言うべきじゃなかったかもしれない」
 と、ムミョンが小さな声になった。
「違うんだ」
 セリョンはムミョンの貌を見つめる。彼は今や耳朶まで紅くなっていた。
「あれは違う、その」
 ムミョンは言いかけ、絶句した。
「俺は口下手だから、上手く言えないが、そなたがあいつ―キョンボクを必要以上に庇うのを見ていたら、何だかムシャクシャして腹が立ってしまった」
「―」
 セリョンは小首を傾げた。ムミョンの言っていることは判るようで、今一つ判らない。
 ムミョンの整った貌に苦笑いが浮かび上がる。
「俺もそういうことには疎いが、セリョンは俺の上をいくな。妓房で生まれ育ったのに、随分と世間知らずというか初心というか」
「そういうことって?」
 何の気なしに問うと、ムミョンはまた紅くなった。
「だから、男女のことだよ、男と女のことだ」
 あからさまに言われ、セリョンも頬を熱くした。
「遊廓っていうのは、男と女の密事(みそかごと)が日々、行われる場所だ。そういうところで育ったセリョンは、恐らく俺よりよほどたくさんの色恋を見てきたはずなのに、随分と男女のことに疎いみたいだ。きっと女将が大切に育てたお陰だろうな」
 ムミョンの言うとおりだった。母は日々の仕事―雑務に関してはセリョンに厳しかったが、それ以外は甘く、殊に廓で日々営まれる男と女の睦み事をセリョンには見せないようにしてきた。
 いつだったか、セリョンの水揚げを熱望する客の一人が何度催促しても拒絶され、呆れて言ったことがある。
―まったく女将が一人娘を大事にするのは、外の風にも当てないようではないか。王さまの娘でも、これだけ男女のことを知らぬおぼこな娘はおるまいよ。
 もろちん、セリョンとて遊廓の女将の娘だ、男客と妓生が一室に籠もり何をしているのかは知っている。けれども、それはあくまでも知識としてだけにすぎなかった。
 セリョンは淡く微笑んだ。
「私はおっかさんの本当の娘ではないの」
「何だって」
 ムミョンの漆黒の瞳が大きく見開かれている。
「私は十六年前、翠翠楼の前に捨てられていたのよ。おっかさんが実の娘として育ててくれた」
 ムミョンはしばらく言葉もなかったが、少しく後、小さな声で言った。
「そうだったのか、済まない。余計なことを言ってしまった。さりながら、女将とそなたはどこから見ても本当の母子にしか見えない」
 セリョンが笑う。
「気にしないで。私たちが実の母子じゃないと知ると、誰もが同じことを言うから」
「セリョンも色々とあったのだな」
 しみじみと言うムミョンに、セリョンは屈託なく笑いかけた。
「だから、捨てられている可哀想な仔たちを見ると放っておけなくて」
 ムミョンの黒瞳が話の先を促しているような気がして、セリョンは続けた。
「私もおっかさんが拾ってくれなければ、どこかで野垂れ死にしていただろうし」
「だから、翠翠楼には犬や猫がたくさんいるんだな」
 ムミョンが笑いを含んだ声音で言うのに、セリョンも笑って頷いた。
「そなたが勇気を出して真実を教えてくれたなら、俺も話すとしよう」
 ムミョンが言い、いや、と、首を振る。
「そんな言い方は卑怯だな。むしろ、俺は誰かに聞いて欲しいとずっと願っていたのかもしれない。何しろ、身の上話なんて誰にもしたことがなかったから」
「私なんかが聞いても良いの?」
「ああ、というより、むしろ聞いてくれ」
 セリョンは黙って頷いた。
「セリョンは見たか?」
 唐突な問いに、セリョンは眼をまたたかせる。
「何を?」
「俺の左眼だ」
 実のところ、セリョンは彼の左目が開いた状態では見たことはない。彼が意識不明で翠翠楼に運び込まれた時、町医者のホ・ソンが意識のない彼を診察する際、瞳孔を確認したことがある。その時、側にいたセリョンに医者が息を呑んだのが判り、
―何と、この者は世にも珍しいふた色の眼(まなこ)を持っておる。
 ホ・ソンに促されて覗いたムミョンの左目は、セリョンが何度か見たことがある海の色をしていた。
 見ていないとごまかすこともできた。でも、セリョンは彼に偽りは言いたくなかった。
「ええ、見たわ。あなたがまだ意識を回復する前だけど」
 ムミョンは何も言わず、深い息を吐き出した。
「見てのとおり、俺の身体には異様人の血が流れている」
「お医者さまもそんなことを言っていたわ、あなたのお母さんが外国の人だったの?」
「いいや」
 その問いには彼は即答した。
「俺の母は正真正銘の朝鮮人だ。だが、母の曽祖母だという女性がどうやら、海を渡った向こうの国から来たらしい。商人の父親と共に商船に乗っていたところ、嵐で遭難して流れ着いたのがこの国だったとか」
 その先は聞かずとも判った。流れ着いた異国のうら若い女性は朝鮮の男と結婚した。そして、何代か後になって生まれたムミョンに曽祖母だという異国人の風貌の名残が現れたのだろう。
 セリョンは微笑む。
「お祖母(ばあ)さまだという方は、きっと金髪碧眼の美しい方だったのでしょうね」
 ムミョンが遠い瞳になった。
「俺は一度だけ、母が大切に持っていた曽祖母の姿絵を見たことがある。外国では細密画というそうだが、確かに美しい女性だった。透き通るような肌で、眼は鮮やかな水の色をしていたな」
 セリョンの瞼に一人の女性が鮮やかに浮かび上がる。都の長く厳しい冬に降り積もる雪のような膚、深い海のような輝く瞳、腰まで流れる艶やかな髪は黄金の糸を紡いだようで。そのひとは薄紅色のドレスを纏い、同色のリボンで髪を飾って微笑んでいる。
「お祖父(じい)さまは、どういう方だったの?」
 好奇心に駆られて問えば、ムミョンの美しい貌が翳った。いつも彼の貌を縁取っている翳りがよりいっそう濃くなる。
「両班だ」
 セリョンは息を呑んだ。
「ムミョンは両班の子息だったの!」
「側女だ」
「え?」
 ムミョンは吐き捨てるように言った。
「遠い異国から流れ着いた祖母は美しかった。でも、皆が注目したのは祖母の美貌よりも見かけの珍しさだった。俺の曾祖父はまるで珍獣を買い取るように曽祖母を側室として迎えた」
「―」
 セリョンは返す言葉もない。
「確かに俺の母方は両班の血筋だ。曽祖母は三人の子どもに恵まれ、娘たちはそれなりの両班に嫁いだ。それでも、結局、俺の母はやはり側女にしかなれなかった。俺が生まれたばかりに、母は正室から苛められ抜いて亡くなった」
「どうして、お母さんが亡くなったこととムミョンは関係ないのでは」
「俺の、この眼」
 ムミョンが堪らないといったように首を振る。
「俺のこの左目を父の正室は気味が悪い、化け物だと忌み嫌い、母を化け物を産んだ忌まわしい女だと罵った」