棚から本マグロ
腰の辺りまでしか浸からない積りだったが、真冬の波は穏やかに見えてもたちまち私を引き倒して全身がずぶ濡れになった。
「大丈夫?」
マリコの声が立ち上がった私の頭の中に直接話しかけてきた。
「ああ、大丈夫だよ。それよりキミは?」
「悪くないみたい。なんだかすごく軽くなった気がするわ。正直、あのまま腐って行ったらどうしようとか、売りに出されたらどうしよう、って心配だったの。さすがにあのままお葬式を上げて火葬に、とかは考えなかったわよ。こんな顔で遺影とかを作られたら嫌だなって少しだけ思ったけど――」
「そうだな。それにしても一昨日からキミはよく喋る」
心なしか自分が微笑んでいるのがわかった。
「あら、わたしって元々おしゃべりだったのよ。今度、実家に行った時に訊いてみて?」
「ダメだよ。こんなことキミの両親にはとてもじゃないけど説明できない」
私はマリコの両親の顔を思い浮かべかけたが、慌てて消し去った。
「――じゃあもう行くわね。この身体だともうおサカナは食べられないかも知れないけど、誰にも負けないくらい速く泳げそうな気がするわ」
マリコはそう言うと、身体に巻きつけたビニールから巧みに抜け出して海の中に泳ぎだして行った。海面近くを白波を立てながらものすごい速さで泳ぎ回るマリコが見えた。
私はどうして良いかわからずその場に佇んでいた。
すると遠くから波を蹴散らしてマリコが一直線に向かって来るのが見えた。私は衝突を予期して全身に力を入れた――。
しかし思ったような衝突は無く、気がつくとマグロの口ばしが私の下腹を柔らかく押して、渚へ押し戻そうとしている様だった。
「わかったよマリコ。僕はおとなしく家に帰ることにするさ」
「そう。よかったわ。貴方までサカナになったら困るもの……」
マリコは押すのをやめてゆっくりと方向転換した。私は「どう困るのさ」という言葉を飲み込んで、マリコの方を向いたまま後ずさった。
「また会えるかな」
私は数メートル先にいるマリコに言った。
「わからないわ。でも、もうわたしを釣り上げようなんて思わないでね――。
それとさっき、何年ぶりかでお姫様抱っこをされて、ちょっと嬉しかったわ」
ゆるゆると遠ざかるマリコの声は驚くほどはっきりと聞こえた。
「僕だってわからないさ」
抱っこはもう何度もしたんだけど、という台詞は口に出さなかった。本当に私が釣り上げたのかという疑問もそのままである。
私の声が届いたのかはわからないが、私が言い終わるのと同時にマリコは泳ぐスピードを上げて泳ぎ去った。
そして遠くで一度、海面をジャンプした。
身体の肉が無くなっていたので、私には頭と尾ひれしか見えなかった――。
おわり