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短編集73(過去作品)

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 入道雲が大きく厚く立ち込めてくるのだが、雨が降りそうな雰囲気はなく、涼しい風が時折吹いてきて気持ちいい。そういえばあの時、仕事以外で必ずもう一度ここを訪れてみたいと思ったことを思い出した。なぜ忘れていたのだろう。それだけ都会との生活とのギャップがあるのかも知れない。ここで過ごした何日かは、まるで夢のように通り過ぎて行ったのだ。
 宿が見えてきた。以前来た時よりも早く感じたのは気のせいだろうか? いや瞼に残ったここまでの風景が完全につながっていたからに違いない。もうすでにリラックスモードに入っている私は、まるで家を出てからかなり建っているような錯覚に、陥ってしまっていた。
 ここの宿は昔からの旧家として栄えたところを、女将さんの代で宿に改造したものだった。本来であれば土地をかなり持っているので温泉宿などせずとも十分生計を立てていけるのだろうが、温泉が出ることを知った女将さんは、さっさと温泉宿に改良してしまった。
 しかも嘘か本当か、効用の中に「子宝に恵まれる」とあるので、密かに客はやってきている。
 どこで調べてくるのだろう。かくゆう私もその触れ込みがなければ三年前に取材などこなかったかも知れない。寂しい村の中にあって宣伝もしていないのに客が来る宿があると聞いてやってきたが、「なるほど」と感心させられてしまった。
 三年前に泊まったところと同じ部屋を私は指定した。
「亀の間」とは何とも曰くありげではないか。
 しかもこの部屋からの眺めは絶景で、遠くに見える山が時間帯によって目の前に見える時がある。日差しの加減であろうが、何となくジグザグになった山の斜面がそう思わせるのかも知れない。まことに珍しい山である。
 あの日もそうだったのだが、今回も結構何組か泊まっている。若いアベックから少し歳の行ったカップル、曰くありげな怪しいカップルさえもいた。
 私の宣伝があろうがなかろうが、この温泉にはどこからか、客は集まってくるのだ。下手な宣伝は却ってない方がいい。なぜなら読者は宣伝された評判をどれほど信じているかなどわからないからだ。しかも私の勤めていた雑誌社で果たして子宝を欲する人がそんなにいるとは考えられない。ある意味低俗な男性誌の娯楽ページなのだから。
 しかし私には少し怪しげなカップルが少し気になっていた。歳はかなり離れているようで、かなり男性の歳が上である。どこかの会社の上司とOL、不倫の匂いがプンプン香ってくるのは私だけではないだろう。
 しかしさすが女将を中心に仲居さんを初め、誰も顔に出そうとはしない。自分たちの控え室に帰ればそれなりに噂が飛び交うのだろうが、さすがに客商売である。
 ほとんどのカップルはどの組もここでは人目をはばかるようなことはない。腕を組んだり、手を握って歩いたり、いかにもカップルのための宿であると言わんばかりだった。三年前もそうだった。ここに来て唯一辛いのは、自分が一人であることを今さらながらに思い知らされることだった。
 私が着いた時間帯というとちょうど食事の時間と重なっていた。食事はそれぞれ部屋に運ばれ、熱い雰囲気の元、軽いアルコールが入った中のほろ酔い気分で、その時を迎えるのだろう。
 私は食事の時間を少しずらし、一風呂浴びることにしていた。
 ここは混浴の露天風呂も売りの一つである。
 まぁ、もっともアベックのほとんどは、同じ露天風呂でも家族風呂に入るに違いない。
 脱衣場で浴衣を脱ぎ、露天風呂に入ると、初めて落ち着いた気分になった。
――やっと三年前に戻ったような気がする――
 思わず出てくる息遣いは疲れからなのか、やっと落ち着いたという安心感からなのか最初は分からなかったが、すぐに熱くなってきた顔に浮かんだ笑顔を想像すれば落ち着いた気分になったからなのであろう。
 私はもう真っ暗になった空を見上げた。三年前に入った時も最初に空を見上げたのだった。満天の空には無数の星が煌いていて、都会で見る空と広さが違うのではないという錯覚さえ自然な気にさせてくれる、
――本当に綺麗だな――
 三年前も今日と同じで、露天風呂には誰もいなかった。
 風呂の湯は暑い方かも知れない。立ち上った湯気が満天の空に向かって伸びているが、はるか遠くに空を見上げながら、途中で寂しく消えていく。
 しかし湯船から湧き出している湯気は霧のように立ち込めていて、前はほとんど見えない状態である。
 立ち上る湯気が影となって浮かび上がり、白い中に黒い部分がかすかに見えているのは岩陰かも知れない。そういえば、三年前もそうだった。
 湯気で何も見えない中、私一人湯船に浸かった。浸かる前に洗面器でお湯を注ぎ、身体を流したが、その時露天と思えないほど音が響き渡った。
「カッコーン」
 どうやら小さな山に囲まれたところにあるのだろう。こだまが帰って来るようにも聞こえたのだ。
「ザザー」
 溢れ出るお湯を感じながら湯船に浸かると、一気に疲れがとれたような気がした。ここまで来るのに疲れなど感じなかったはずだった。確かに取材という仕事で来ているので、いくらかはまわりに目をやりながら、人にも気を遣いながらであったのは間違いないが、いつも生活している都会のようにギスギスしたところのない田舎街でこれほどの脱力感を味わうとは思わなかった。
 しかし心地よい脱力感である。思わず「ふぅ」とついてしまう溜息、都会で生活していて味わえない思いだった。
 都会の人たちとのコミュニケーションはある程度諦めているところがある。社交辞令やいやみを言われてもまるで他人事と聞き流すことの多い都会と違い、会話の声を聞いているだけで引き込まれることすらある。自然と大きくなる声も都会だったら、
――うるさいババァだなあ――
 くらいにしか感じないであろう。
 駅を降りてから送迎バスで宿に着くまで今回も一人だったが、同じように覚えていてくれた運転手の顔もよく見ないと思い出せなかった自分が少し恥ずかしかった。そんな思いもすべて湯船に浸かって流れ出たのかも知れない。
 真っ白く何も見えない中で、浮かび上がった黒い影を追いかけていくと、やはり三年前の思い出がよみがえってくる。さっきまではすっかり忘れていたことだ。
「おや?」
 黒い影が揺れているのが見えた。立ち上る湯気の微妙な揺れがそんな錯覚を見せるのかと思ったが、私が起こしたものとは違うかすかな水しぶきの音が聞こえてきたことから、錯覚ではないことを感じた。
 誰もいないと思っていたが、それこそが錯覚だったのだ。
「こんにちは」
 私の驚いた声に反応したのか、先客の人が超えを掛けてくれた。
「え?」
 またしてもびっくりした声を上げた私に相手は逆に落ち着いている。
「ふふふ、ここは混浴ですよ」
 その声はまさしく女性で、顔は見えないが微笑んでいるのだけは雰囲気から分かった。
「びっくりしましたよ、今はお一人で入っておられたんですか?」
「はい」
「お連れさんは?」
「いえ、一人です」
作品名:短編集73(過去作品) 作家名:森本晃次