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短編集73(過去作品)

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子宝の湯



                 子宝の湯


――確かに夢で見たのはここだったんだろう――
 車窓には一面海が広がっている。
 西日を受け、無数の波の谷間から襲ってくる光に目を奪われながら、それでも見つめていた。いつもであればすぐに目を逸らすのであろうが、その日だけは動かすことができないほどに目を奪われていたのだ。
 じっと見れば見るほど近くに感じてしまう水平線は、そのうち光のためにその境が分からなくなるであろう気がして仕方がない。西日を浴びた雲が光っている部分と影になった部分とでくっきりと厚みを帯びて見ることができる。
――まるで入道雲だな――
 空の広さが分からないだけに、海の広さも分からない。天橋立のように股の間から見ればさぞかし空の広さを感じることができるだろう。
 目が海に慣れてくると今度は反対側を見ることにした。
 こちらも夢で見た光景にそっくりで、ゆっくりと腰を上げると車内を見渡した。
 乗ってきた時同様、車内はガラガラである。いわゆる赤字路線ではないかと思えるほどなのだが、この路線の終着駅には大きな工場があり、このあたりの経済を一手に担っているところだった。
 会社の社宅や土地などがこの路線に集中しているため、むやみに廃線にできない事情があると本に載っていたいわく付きのところである。
 しかしさすがにローカル線、昼間はゆったりできるというもので、途中温泉があることを果たして地元以外の人間でどれだけ知っているだろう。
 一度雑誌で紹介されたことがあった。ローカルな温泉場を紹介するコーナーなのだが、それでも地元の人間が繁栄を願ってのことならいいのだが、何となく分からないうちに取材され、ノリ気のない地元民の表情を見て、誰が訪れるものか。企画倒れに終わってしまったのだ。
 しかしその時の私はそのままで終わらなかった。そう、その時の取材に来た記者というのはかくいう私のことである。といっても、私はその時の雑誌社を辞め、雑誌記者としてはフリーになっていた。自分から記事を探して、自分で企画し出来上がったものを売り込みに行く。「自由」という言葉は聞こえがいいが、安定とは程遠い生活である。
 不安がないわけではない。しかし一旦人の下でこき使われることに嫌気がさした私には、もう前の生活に戻れない。
 そして私は今一度以前取材した温泉へ行ってみようと考えた。
 温泉の名は美倉温泉、以前取材した時は、
「二度とこんな非協力的なところに来るものか」
 と思ったものだが、その時はまさかもう一度行ってみようと思うとは、考えもしなかった。
 美倉温泉は取材を重ねるごとに、効用が豊富なことが分かってきた。なるべく効用を宣伝したつもりだったが、どうしてもレジャーランド化が進んだところや、観光の一環としての温泉を求める人が多いため、観光地でもない鄙びた温泉にいくら効用があろうとも敬遠されるのは当然かも知れない。
 しかも地元意識の強い住民にとって、宣伝は決して喜ばしいことではないのかも知れない。地元の人間だけで細々と運営している美倉温泉は、まさしく秘湯といっても過言ではない。
 しかし今回私が訪れるのは、温泉の効用だけが目的ではなかった。
 訪れてみようと思い立ったのは、何と今朝のことであり、前々から計画をしていたことではない。元々フリーの記者なのでその日に思い立って行動することは珍しくないが、今回は少し勝手が違っていた。それは昨夜見た夢に起因している。
 最近、そういえば夢などまともに見た記憶がない。いや、見ているのかも知れないが、目が覚めて意識がはっきりしてくると夢を見たことはおぼろげに覚えていても、内容がまったく頭の中にないのだ。仕事が忙しい時は熟睡してしまっているが、夢の内容は意外と覚えているものである。しかし、最近忙しかろうが暇だろうが、なぜか夢の記憶がまったくなかった。
 以前であれば「夢を見ている夢」といったおかしな夢まで見たものだったが、最近はとんと記憶にないのだ。
 あまりにも現実離れした夢だから?
 いや、そんな夢ほど却って記憶にあるものである。
 目が覚めて夢から次第に現実に引き戻されながら、ホッとする気持ちになることがあるが、覚えていないのが幸いなのかも知れない。そんな時は、間違いなく寝汗が身体にへばりついて気持ち悪いことが多かった。
 車内を見渡した視線を今度は反対側に移した。
 すぐ横には山が迫っていて、目の前を大きな海、後ろは緩やかな綺麗な斜面を緑の木々が滑るように生い茂っている。
 山のてっぺんから見える空には雲ひとつなく、まるで、山と海とでまったく別のところのように思える。
 夢で見た光景、まさしくあれは正夢だったのか、不思議な光景は夢の中でのものだった。
さらに不思議なことであるが、夢から醒めて最初に感じたことは、その不思議な記憶が以前にどこかで見たと思ったことである。それがゆえ、夢の光景がどこだったのかはっきりと思い出すことができたのである。
 夢というのは不思議なものだ。以前見たことを実に最近見たことのように鮮明に思い出すことができる。しかしそれも夢の中だけで、目が覚めてしまうと記憶はどこかに隠れてしまって、不思議に感じたことだけを覚えているのである。
 眩しいくらいの、山からの照り返しを見ていると、強過ぎる緑のためか、目の奥には赤い影が残ってしまう。遠くの山の緑を見ると視力が回復するというが、本当なのだろうか? 山を見ながら他愛もない考えが浮かんできたのだ。
 ふたたび視線を車内へ戻すと、まるで夕焼けのような暗い車内が、目の前に飛び込んできた。さっきまでとまったく違わないはずなのに、何となく違うような気がしてきた。明るさでこれほど様子が変わってしまうものだとは思いもしなかったのである。
 しかしさっきまでは気が付かなかったが、その中に若い女性が混じっていた。その人は白い帽子をかぶっていて白いワンピースといった一発で目立つような服装である。
――どうして気が付かなかったのだろう――
 気が付いたのがさっきの明るい車内であるならまだ分かる。しかし、一旦車窓からの眩しさを受けた目で見渡した車内からよく気が付いたものだ。自分で自分が信じられない。
 いかにも白いワンピースがよく似合うスリムな彼女は、どこかの「お嬢さま」を思わせる。だが行商列車のイメージの強い車内では完全に浮いているにもかかわらず、さっきは気が付かなかったのだ。
 彼女に釘付けになった視線は当分離れないだろう。
 白いのは服だけではない。袖から伸びた細い両腕は窓から日差しが差し込んでくるわけでもないのに、白く光っているように見える。
 顔ははっきり確認できなかった。
 光に目が慣れているため見えにくいのと、まぶかにかぶった帽子のために見えにくいのが重なったことが原因であろうが、顔の輪郭や、何となく影になった部分から察する鼻の高さは、私のタイプの女性のような気がして仕方がない。
――彼女は一体どこに行くのだろう――
作品名:短編集73(過去作品) 作家名:森本晃次