苦界に降る雨
旧暦五月十五日
かよは今年十八、十〈とお〉で吉原〈なか〉のこの楼〈うち〉に連れてこられてから八年、十五で初めて客を取らされてから三年になる。
「よく降るねぇ」
「えぇ、ほんに鬱陶しい」
見世の格子の内で朋輩たちがこぼす。
梅雨時とあって雨が続いている。
降るなら降るで、瓦を叩き、通りを煙らせるほどの激しい雨ならいっそサッパリするし、そんな日は客もめったに来ないから見世に出てはいても心静かに過ごせる。
瓦をそっと濡らし、通りをしっとりと湿らせるような細かい春の雨なら風情もある。
だが、梅雨の長雨はどうもいけない。
吉原は男にとっては極楽だが、遊女にとっては苦界、年季奉公とは表向きのこと、ここで遊女をしているだけで何くれとなく金が要るようにできている、借財をきれいに返して晴れて自由の身となれる遊女は稀だ、歳が行って客が付かなくなる頃には放免されることもあるが、多くの遊女はその歳までは生きられない、性病や堕胎の失敗等々……遊女の生活は体を蝕むのだ。
身請けされて出て行く者がいないわけではないが、それはよほどの幸運に恵まれた者だけのこと、それを夢見るのは勝手だが、それをあてにすることはできない、あてにすれば幸運が舞い降りて来ないわが身を呪って辛くなるだけだ。
かよは、自分がかなり良い金で売られたと知っている、人並み以上の器量を高く買われたのだ。
しかし、売られたのが十の時とあって引き込み禿にはなれなかった。
引き込み禿とは、八つくらいまでに禿となった童女の中で、いずれ楼の看板となる花魁になれる器と見込まれて早くから読み書きや芸事を仕込まれる童女のこと、かよはその道筋からは初〈はな〉っから外れていながら借財だけは他人〈ひと〉より多い、いつか年季〈ねん〉が明ける日が来るなどと夢見ることもできない。
吉原は捕らえた鳥を逃がさない籠のようなもの、遊女は籠の中の鳥だ。
それでも吉原の『華』は籠の鳥の心ですら浮き立たせる。
春ともなれば桜千本が持ち込まれ、桜吹雪が舞う中で道中する花魁の華やかな姿は、客ばかりでなく遊女たちの目をも奪う、夜ともなれば色とりどりの灯が通りを照らし出し、陽気な三味線の音色や笑い声がそこかしこから聞こえて来る、吉原〈ここ〉は浮世を離れた別天地なのだ。
だが、梅雨の長雨はそんな華の色までくすませてしまう。
灰色に沈む通りに人影はまばらだが、格子の内は華やかだ、遊女たちは色とりどりの着物に身を包み、高く結い上げた髪に光るものを挿し、唇に鮮やかな紅を引く。
「こんな日はあがったりだねぇ」
「エエ、年季がまた伸びるだけさね」
真っ赤な紅に彩られた唇から漏れる言葉は、炎に吸い寄せられる蛾のようにはらはらと舞うが、直に雨に打たれて泥にまみれる。
(旧暦)五月十六日
吉原は今日も雨。
通りには人影もまばらだ。
こんな日が続くと体が楽なのは助かるが、着飾り、化粧をして見世に出ているだけで金は要る、だが、客がつかない限り実入りはない。
年季〈ねん〉が明けることなどないのだと分かってはいるが、それを夢見ることすらできなくなりそうだ。
「あら、おまいさん、よく来ておくれだねぇ」
今年二十五になるたえが嬉しそうな声を上げた。
情人〈いろ〉が訪ねて来てくれたのだ。
吉原では一人の遊女が何人もの客の相手をする『廻し』があたりまえ。
好いた情人〈ひと〉が来てくれたからと言って他の客を断るわけにも行かないのだ。
無論、全ての客と一夜を共にすることなど出来はしない、この人と決めた客以外は上手くたらしこんで『この次こそ』と思わせる手練手管が必要だ。
だが、手練手管の内とは言え、好きな情人〈ひと〉を待たせておいて他の男に媚を売らなくてはならないのも辛いものだ。
でもこんな鬱陶しい雨の日は別だ。
他に客がいないのならば、ゆっくり、しっぽりと好い人と過ごすことができる。
情人〈いろ〉の方もそれを知っていて、こんな雨の日を狙ってやって来るのだ、冷やかしや思い立っての女郎買いならいざ知らず、惚れた女が待っているならば雨くらいなんでもないのだろう。
かよにはまだ好い人はいない、今はまだ男なんて二つに一つしかないとしか思えない。
女を食いたがる男と、女を食い物にする男だ。
でも、たえの嬉しそうな顔、華やいだ声を聴くと、正直なところ羨ましくも思う。
生きていても仕方がないと思う日もあるが、もしあんなに嬉しがるようなことがあるのだったら生きる甲斐もあるのかもしれないとも思う。
たえと 情人〈いろ〉がトントンと梯子段を昇って行くのを見送ると、格子の内ではため息が床を這った。
朋輩に訪れた、ひと時のささやかな悦びを妬む気持ちはない……だが遊女は籠の鳥、好きな男と暮らすことなどできはしない、たえも明日の朝にはそのことを辛く思うに違いないのだ、格子の中の誰もがそれを経験しているのだから……。
旧暦五月十七日
今朝方、しづ姐さんが亡くなった。
うっとおしいばかりの五月雨も、今日ばかりは天がしづを哀れに思って涙をこぼしているかのように思える。
酷い梅毒に冒され、このところは呆けたようになっていて、朋輩の顔もわからなくなっていたのだが、しきりに昔のこと、ふるさとのことを話したがっていた。
話を聞いてやってもとりとめがなく、ふるさとも山間の村だったり海辺の漁師町だったり、どれが本当かわからなかった。
しづ姉さんの中では、自分をはじき出した本当のふるさとよりも、客が懐かしそうに語るふるさとが羨ましくて、いつか頭に描いたふるさとを自分のものと信じ込んでいたのかもしれない。
しづはこの楼でも指折りの遊女、かよがこの楼〈うち〉に連れてこられてすぐ、禿〈かむろ〉として着いたのもしづだった。
花魁とまではなれなかったが、美しく、芸事が達者で、半紙に筆でさらさらと書く文字もしなやかできれいだった。
禿になりたての頃「しづ姐さんのようになりたい」と言った時に何とも悲しそうな目で見られたのをよく覚えている。
それから随分と目をかけてもらい、読み書きや芸事もしづから教わった。
安らかな死に顔とは言えない、美しかった顔も瘡に覆われんばかり。
だが、そんなしづの死に顔を見ても不思議と涙はこぼれなかった、しづがこの世に生まれてきたことを喜んでいたようには見えなかったから……。
たった今、この吉原〈さと〉で生きて行くことの苦しみからは逃れられたのだから……。
たった今、この吉原〈さと〉から出て行くことが出来るのだから……。
「さあ、もういいだろう」
若い衆と呼ばれる男たちが、別れを惜しむ朋輩たちを追い払うようにして部屋から出した。
吉原で亡くなった遊女は、裸に剥かれ、むしろに包まれて浄閑寺の境内に投げ込まれる、いわゆる投げ込み寺だ。
犬や猫の死骸を捨てるようにむしろに包んで投げ捨てるのは、人として葬って祟られるのを怖れるからだと言う。
そのくせ、浄閑寺にはずいぶんと寄進をしているのだとも聞いた、だから寺ではちゃんとお経をあげて弔ってくれるのだとも……。
かよはそれをいかにも吉原らしいやり方だと思う。
かよは今年十八、十〈とお〉で吉原〈なか〉のこの楼〈うち〉に連れてこられてから八年、十五で初めて客を取らされてから三年になる。
「よく降るねぇ」
「えぇ、ほんに鬱陶しい」
見世の格子の内で朋輩たちがこぼす。
梅雨時とあって雨が続いている。
降るなら降るで、瓦を叩き、通りを煙らせるほどの激しい雨ならいっそサッパリするし、そんな日は客もめったに来ないから見世に出てはいても心静かに過ごせる。
瓦をそっと濡らし、通りをしっとりと湿らせるような細かい春の雨なら風情もある。
だが、梅雨の長雨はどうもいけない。
吉原は男にとっては極楽だが、遊女にとっては苦界、年季奉公とは表向きのこと、ここで遊女をしているだけで何くれとなく金が要るようにできている、借財をきれいに返して晴れて自由の身となれる遊女は稀だ、歳が行って客が付かなくなる頃には放免されることもあるが、多くの遊女はその歳までは生きられない、性病や堕胎の失敗等々……遊女の生活は体を蝕むのだ。
身請けされて出て行く者がいないわけではないが、それはよほどの幸運に恵まれた者だけのこと、それを夢見るのは勝手だが、それをあてにすることはできない、あてにすれば幸運が舞い降りて来ないわが身を呪って辛くなるだけだ。
かよは、自分がかなり良い金で売られたと知っている、人並み以上の器量を高く買われたのだ。
しかし、売られたのが十の時とあって引き込み禿にはなれなかった。
引き込み禿とは、八つくらいまでに禿となった童女の中で、いずれ楼の看板となる花魁になれる器と見込まれて早くから読み書きや芸事を仕込まれる童女のこと、かよはその道筋からは初〈はな〉っから外れていながら借財だけは他人〈ひと〉より多い、いつか年季〈ねん〉が明ける日が来るなどと夢見ることもできない。
吉原は捕らえた鳥を逃がさない籠のようなもの、遊女は籠の中の鳥だ。
それでも吉原の『華』は籠の鳥の心ですら浮き立たせる。
春ともなれば桜千本が持ち込まれ、桜吹雪が舞う中で道中する花魁の華やかな姿は、客ばかりでなく遊女たちの目をも奪う、夜ともなれば色とりどりの灯が通りを照らし出し、陽気な三味線の音色や笑い声がそこかしこから聞こえて来る、吉原〈ここ〉は浮世を離れた別天地なのだ。
だが、梅雨の長雨はそんな華の色までくすませてしまう。
灰色に沈む通りに人影はまばらだが、格子の内は華やかだ、遊女たちは色とりどりの着物に身を包み、高く結い上げた髪に光るものを挿し、唇に鮮やかな紅を引く。
「こんな日はあがったりだねぇ」
「エエ、年季がまた伸びるだけさね」
真っ赤な紅に彩られた唇から漏れる言葉は、炎に吸い寄せられる蛾のようにはらはらと舞うが、直に雨に打たれて泥にまみれる。
(旧暦)五月十六日
吉原は今日も雨。
通りには人影もまばらだ。
こんな日が続くと体が楽なのは助かるが、着飾り、化粧をして見世に出ているだけで金は要る、だが、客がつかない限り実入りはない。
年季〈ねん〉が明けることなどないのだと分かってはいるが、それを夢見ることすらできなくなりそうだ。
「あら、おまいさん、よく来ておくれだねぇ」
今年二十五になるたえが嬉しそうな声を上げた。
情人〈いろ〉が訪ねて来てくれたのだ。
吉原では一人の遊女が何人もの客の相手をする『廻し』があたりまえ。
好いた情人〈ひと〉が来てくれたからと言って他の客を断るわけにも行かないのだ。
無論、全ての客と一夜を共にすることなど出来はしない、この人と決めた客以外は上手くたらしこんで『この次こそ』と思わせる手練手管が必要だ。
だが、手練手管の内とは言え、好きな情人〈ひと〉を待たせておいて他の男に媚を売らなくてはならないのも辛いものだ。
でもこんな鬱陶しい雨の日は別だ。
他に客がいないのならば、ゆっくり、しっぽりと好い人と過ごすことができる。
情人〈いろ〉の方もそれを知っていて、こんな雨の日を狙ってやって来るのだ、冷やかしや思い立っての女郎買いならいざ知らず、惚れた女が待っているならば雨くらいなんでもないのだろう。
かよにはまだ好い人はいない、今はまだ男なんて二つに一つしかないとしか思えない。
女を食いたがる男と、女を食い物にする男だ。
でも、たえの嬉しそうな顔、華やいだ声を聴くと、正直なところ羨ましくも思う。
生きていても仕方がないと思う日もあるが、もしあんなに嬉しがるようなことがあるのだったら生きる甲斐もあるのかもしれないとも思う。
たえと 情人〈いろ〉がトントンと梯子段を昇って行くのを見送ると、格子の内ではため息が床を這った。
朋輩に訪れた、ひと時のささやかな悦びを妬む気持ちはない……だが遊女は籠の鳥、好きな男と暮らすことなどできはしない、たえも明日の朝にはそのことを辛く思うに違いないのだ、格子の中の誰もがそれを経験しているのだから……。
旧暦五月十七日
今朝方、しづ姐さんが亡くなった。
うっとおしいばかりの五月雨も、今日ばかりは天がしづを哀れに思って涙をこぼしているかのように思える。
酷い梅毒に冒され、このところは呆けたようになっていて、朋輩の顔もわからなくなっていたのだが、しきりに昔のこと、ふるさとのことを話したがっていた。
話を聞いてやってもとりとめがなく、ふるさとも山間の村だったり海辺の漁師町だったり、どれが本当かわからなかった。
しづ姉さんの中では、自分をはじき出した本当のふるさとよりも、客が懐かしそうに語るふるさとが羨ましくて、いつか頭に描いたふるさとを自分のものと信じ込んでいたのかもしれない。
しづはこの楼でも指折りの遊女、かよがこの楼〈うち〉に連れてこられてすぐ、禿〈かむろ〉として着いたのもしづだった。
花魁とまではなれなかったが、美しく、芸事が達者で、半紙に筆でさらさらと書く文字もしなやかできれいだった。
禿になりたての頃「しづ姐さんのようになりたい」と言った時に何とも悲しそうな目で見られたのをよく覚えている。
それから随分と目をかけてもらい、読み書きや芸事もしづから教わった。
安らかな死に顔とは言えない、美しかった顔も瘡に覆われんばかり。
だが、そんなしづの死に顔を見ても不思議と涙はこぼれなかった、しづがこの世に生まれてきたことを喜んでいたようには見えなかったから……。
たった今、この吉原〈さと〉で生きて行くことの苦しみからは逃れられたのだから……。
たった今、この吉原〈さと〉から出て行くことが出来るのだから……。
「さあ、もういいだろう」
若い衆と呼ばれる男たちが、別れを惜しむ朋輩たちを追い払うようにして部屋から出した。
吉原で亡くなった遊女は、裸に剥かれ、むしろに包まれて浄閑寺の境内に投げ込まれる、いわゆる投げ込み寺だ。
犬や猫の死骸を捨てるようにむしろに包んで投げ捨てるのは、人として葬って祟られるのを怖れるからだと言う。
そのくせ、浄閑寺にはずいぶんと寄進をしているのだとも聞いた、だから寺ではちゃんとお経をあげて弔ってくれるのだとも……。
かよはそれをいかにも吉原らしいやり方だと思う。