川の流れの果て(7)(終)
それはちょうど大晦日であり、柳屋には留五郎達も、甚五郎爺さんも居て、他にもお客で溢れかえっていた。
初詣を楽しみに話す者、一年の勘定のまとめの「掛け取り」を誤魔化せないかと相談する者、新年のご馳走を思い描いてみる者、一年を振り返って笑い飛ばす者、泣く者。
店の中は賑わって、お花はくらくらしそうな程忙しかったし、吉兵衛も一瞬たりとも手を休められず、入れ替わり立ち替わりに、次から次へお客があった。
留五郎達の座る座敷には燗酒が火鉢で温められ、それから刺身の皿が膳に乗せられ、猪肉の鍋で精をつけようと言って、火鉢の上に猪肉と味噌が放り込まれた鍋が乗っていた。
「ふいーっ。寒いが、やっぱり鍋ぁいいよなぁ。もう煮えたんじゃねえか?」
「そうだな、そろそろいいか」
楽しみに待っていた鍋の中から、良く煮えた猪の肉を選ぼうと与助は箸でつつき、与助の向かいに居た留五郎も胸をほくほくさせながら、同じように鍋の中をひっくり返してはいいところの肉をつまんだ。
「うん、うめえ!」
「うめえなあ」
三郎も肉をつまみあげたが、牡丹は食べたことが無いので、肉を裏返しては見つめ、訝しげであった。それを見て留五郎と与助はにやにやと笑いながら、「要らねえんなら俺達で食うぜ?」、「そうそう」と、軽口を叩いた。
「馬鹿言え、うまいんだろう」
三郎が拗ねながら肉を口に放り込んで噛んでみると、油臭さの無い、引き締まった猪の肉を味わい、「こらぁ確かにうめえ…」と感嘆していた。
与助と留五郎は楽しそうに笑い、そこから先は三人で競い合って鍋をつつきまわした。
「はー、食った。うまかったな」
「なあ」
三人が腹をなでさすりながら後ろへ腕をついていると、店の外を偶然見ていた留五郎が、こちらへ歩いてきて行灯の灯りをちょうど受けた又吉を見つけた。
「お、又吉が来たぞ」
与助は留五郎の言葉を聞いて慌てて振り向き、又吉へ手招きをする。
「又吉!こっちだこっちだ!」
又吉はおずおずと三人の席に近寄ったが、その日の又吉は少し様子がおかしかった。
まず、顔色が紙のように白く、むしろ青いようだった。いつもの笑顔も消え失せて、悲しそうな顔だった。与助と留五郎がそれを心配して声を掛けても、又吉はいつもの返事より更に歯切れが悪く、「ちょっと、風邪を引いたかもしれねえんです」と、ぼやかして答えた。
「そうかい?それにしちゃあ真っ青じゃねえか。とりあえず座りな。休まなきゃならなそうだぜ」
三郎がそう声を掛けると、又吉は三郎の隣に座ってすぐに懐を探り、三郎に借りた「おくの細道」を取り出した。
「これ、ありがとうごぜえましただ。面白いなんて言っちゃ変かもしれねえけんど…いいもんでしただぁ」
青い顔ながらも又吉は笑って、三郎に礼を言うと、頭を下げた。しかしそれはいつもの可愛らしい子供のようなお辞儀ではなく、力なくがっくりと項垂れる様子に似ていた。
「ありがとよ。おめえが気に入ってくれたなら良かったが、どうだい、中身の感想は」
三郎は又吉の様子を気にしながらも、本について聞こうとすると、又吉の目は不意にすとんと火鉢の中の炭へと落っこちて、瞳の色はとろりと曖昧になった。
「…旅は、いいもんだと思いましただ。おらもどっか旅に行けたらええなあなんて…思いましたでなぁ…」
又吉は遠い何かを思い出しているような目をして、安らいだ顔でそう言った。本の中身を思い出し、そこで旅をしているように見える目だった。
「そうだな、この本には、いろんな旅の風景が書いてある。おめえはどこに行きたいと思った?」
又吉はそう聞かれて一瞬ハッとしたが、すぐに考え込むように顎をさすり、しばらくしてまた俯いた。
「どこってこともねえけんども…どこも面白そうだでぇ、みんな行きてえですだぁ」
「あはは。みんなは無理だな、銭が掛かり過ぎらぁ」
「そうですなぁ」
三郎と又吉はそう言って笑っていた。それから又吉はいつものようににごり酒を頼んだが、その日は珍しく、三合ではなく一合で、つまみは澄まし汁だけであった。
「実は、お店の大掃除の途中を抜け出てきてしまいましたでなぁ、すぐ帰らねえといげねえんです」
又吉はそう言いながら一合の酒を一気に飲み干し、貝の澄まし汁を啜って席を立った。
「留五郎さん、与助さん、三郎さん、よいお年をお迎えくだせぇ。ありがとうございましただ」
そう言ってぺこっと頭を下げた時には、又吉はいつもの様子に戻っていた。顔色もそう青くもないように見えたので留五郎達も安心して、「おう!こちらこそありがとうな、おめえも良い年迎えろよ!早く具合を治すんだぞ!」と返事をした。
柳屋の敷居から外に出て行く又吉に向かって手を振り、「猪肉を又吉にも食わせてやりゃあ良かったなぁ」、「食い終わっちまったんだからしょうがねえだろ」などと噂話をして、それからもう一度お花に酒を誂えてもらっていた。
初詣を楽しみに話す者、一年の勘定のまとめの「掛け取り」を誤魔化せないかと相談する者、新年のご馳走を思い描いてみる者、一年を振り返って笑い飛ばす者、泣く者。
店の中は賑わって、お花はくらくらしそうな程忙しかったし、吉兵衛も一瞬たりとも手を休められず、入れ替わり立ち替わりに、次から次へお客があった。
留五郎達の座る座敷には燗酒が火鉢で温められ、それから刺身の皿が膳に乗せられ、猪肉の鍋で精をつけようと言って、火鉢の上に猪肉と味噌が放り込まれた鍋が乗っていた。
「ふいーっ。寒いが、やっぱり鍋ぁいいよなぁ。もう煮えたんじゃねえか?」
「そうだな、そろそろいいか」
楽しみに待っていた鍋の中から、良く煮えた猪の肉を選ぼうと与助は箸でつつき、与助の向かいに居た留五郎も胸をほくほくさせながら、同じように鍋の中をひっくり返してはいいところの肉をつまんだ。
「うん、うめえ!」
「うめえなあ」
三郎も肉をつまみあげたが、牡丹は食べたことが無いので、肉を裏返しては見つめ、訝しげであった。それを見て留五郎と与助はにやにやと笑いながら、「要らねえんなら俺達で食うぜ?」、「そうそう」と、軽口を叩いた。
「馬鹿言え、うまいんだろう」
三郎が拗ねながら肉を口に放り込んで噛んでみると、油臭さの無い、引き締まった猪の肉を味わい、「こらぁ確かにうめえ…」と感嘆していた。
与助と留五郎は楽しそうに笑い、そこから先は三人で競い合って鍋をつつきまわした。
「はー、食った。うまかったな」
「なあ」
三人が腹をなでさすりながら後ろへ腕をついていると、店の外を偶然見ていた留五郎が、こちらへ歩いてきて行灯の灯りをちょうど受けた又吉を見つけた。
「お、又吉が来たぞ」
与助は留五郎の言葉を聞いて慌てて振り向き、又吉へ手招きをする。
「又吉!こっちだこっちだ!」
又吉はおずおずと三人の席に近寄ったが、その日の又吉は少し様子がおかしかった。
まず、顔色が紙のように白く、むしろ青いようだった。いつもの笑顔も消え失せて、悲しそうな顔だった。与助と留五郎がそれを心配して声を掛けても、又吉はいつもの返事より更に歯切れが悪く、「ちょっと、風邪を引いたかもしれねえんです」と、ぼやかして答えた。
「そうかい?それにしちゃあ真っ青じゃねえか。とりあえず座りな。休まなきゃならなそうだぜ」
三郎がそう声を掛けると、又吉は三郎の隣に座ってすぐに懐を探り、三郎に借りた「おくの細道」を取り出した。
「これ、ありがとうごぜえましただ。面白いなんて言っちゃ変かもしれねえけんど…いいもんでしただぁ」
青い顔ながらも又吉は笑って、三郎に礼を言うと、頭を下げた。しかしそれはいつもの可愛らしい子供のようなお辞儀ではなく、力なくがっくりと項垂れる様子に似ていた。
「ありがとよ。おめえが気に入ってくれたなら良かったが、どうだい、中身の感想は」
三郎は又吉の様子を気にしながらも、本について聞こうとすると、又吉の目は不意にすとんと火鉢の中の炭へと落っこちて、瞳の色はとろりと曖昧になった。
「…旅は、いいもんだと思いましただ。おらもどっか旅に行けたらええなあなんて…思いましたでなぁ…」
又吉は遠い何かを思い出しているような目をして、安らいだ顔でそう言った。本の中身を思い出し、そこで旅をしているように見える目だった。
「そうだな、この本には、いろんな旅の風景が書いてある。おめえはどこに行きたいと思った?」
又吉はそう聞かれて一瞬ハッとしたが、すぐに考え込むように顎をさすり、しばらくしてまた俯いた。
「どこってこともねえけんども…どこも面白そうだでぇ、みんな行きてえですだぁ」
「あはは。みんなは無理だな、銭が掛かり過ぎらぁ」
「そうですなぁ」
三郎と又吉はそう言って笑っていた。それから又吉はいつものようににごり酒を頼んだが、その日は珍しく、三合ではなく一合で、つまみは澄まし汁だけであった。
「実は、お店の大掃除の途中を抜け出てきてしまいましたでなぁ、すぐ帰らねえといげねえんです」
又吉はそう言いながら一合の酒を一気に飲み干し、貝の澄まし汁を啜って席を立った。
「留五郎さん、与助さん、三郎さん、よいお年をお迎えくだせぇ。ありがとうございましただ」
そう言ってぺこっと頭を下げた時には、又吉はいつもの様子に戻っていた。顔色もそう青くもないように見えたので留五郎達も安心して、「おう!こちらこそありがとうな、おめえも良い年迎えろよ!早く具合を治すんだぞ!」と返事をした。
柳屋の敷居から外に出て行く又吉に向かって手を振り、「猪肉を又吉にも食わせてやりゃあ良かったなぁ」、「食い終わっちまったんだからしょうがねえだろ」などと噂話をして、それからもう一度お花に酒を誂えてもらっていた。
作品名:川の流れの果て(7)(終) 作家名:桐生甘太郎