川の流れの果て(3)
又吉と紺屋の職人連中は「柳屋」でたまに顔を合わせると、顔馴染みとして接するようになっていた。
吉兵衛が提灯に火を入れる時分になると又吉は現れ、「親方、飯と酒を頂きたいんで…」とはにかむように笑うのだ。
その日は店には人が多く、若侍が一人と、その連れの白髪の混じった髷の、上役らしき侍が奥の座敷に居た。
それからその隣の座敷には、銭が掛かっているわけではないが洒落た身なりをした若い男が三人居て、店の馴染みで毎日来ている甚五郎爺さんは、その日も着た切りの錆御納戸の甚兵衛で床几に座って飲んでいる。
甚五郎爺さんの座ったのと一本間を空けた、道にはみ出した一番端の床几に紺屋の連中三人は掛けていた。
「おう又吉ぃ!久しぶりだなぁ!ここ座れや!」
与助がそう声を掛けると、又吉は「ありがとうごぜえますだ、失礼するでなぁ」と床几に腰掛け、三郎の隣に留五郎、次に与助それから又吉、の順になった。
店ではいろいろな声がしていて、侍二人は世間話に興じているようで時々笑い声を漏らしたが、至って大人しく飲んでいた。
だが、隣の若い者三人は芝居小屋の帰りと見えて、「今度名代になった奴はあんまり見込みが無い」だの、「いやそんなことはねえ、あそこまで堂々と演る奴ぁ大したもんだ」だのと、ずいぶん酔っぱらっているようで、声高に議論をしていた。お花はその座敷に燗酒を運んでいた。
。
「お花ぁ、又吉さんへにごりを三合なぁ!」
「えっ?はい!はいただいま!」
又吉の来たことにお花は気づいて、慌てて酒を汲みに行き、その日は又吉の好物の烏賊があったので、ワタ焼きと、それから吉兵衛が蛸の煮つけを勧めたので、勧められるままに又吉はそれを頼んだ。
又吉と紺屋の連中が近頃までの様子を聞き合ったり、三郎が、先の祭りで留五郎が神輿を担いだ話をして、又吉はそれを嬉しそうに聞き、留五郎がさらに詳しく様子を語ったりなどしているうちに、お花が酒を運び、煮つけとワタ焼きを膳に乗せて運んできた。
「ありがとうごぜえますだぁ」
「いえ、ではまた御用の時に…」
お花は控えめに微笑んでから又吉から目を逸らしてすぐに洗い物へ向かったが、去り際のお花の顔を見て、三郎は一人でふふっと笑った。しかし口に出すのは野暮と思ったのか、黙って手酌で酒を注ぐ。
留五郎達は肴は焼き烏賊だったらしい。三郎と留五郎の間の膳の上の皿にはゲソがまだ残っていて、与助は烏賊を串から喰い千切っていた。
又吉は運ばれてきた膳から、まず蛸の煮つけを箸に掛けて口へ運ぶと、二口三口噛んで、びっくりして与助に叫んだ。
「蛸が柔らけえだ与助さん!」
与助はびっくりしてしまって、「はあ?」と素っ頓狂な声を上げ、留五郎と三郎も驚いて笑ってしまっていた。
「おら一回だけ江戸の屋台で蛸を食っただ!でも硬かったでよぉ!」
「弱い火でな、じーっくり煮込むんだ。そうするとうめえんだよ」
まな板の前に居た吉兵衛親方は嬉しそうにそう言って笑っている。
「そうなんですけえ!こったら柔らけえんなら、はあ、うめえもんですなぁ!」
奉公人で、まして田舎に帰って商売をするという目当てのある又吉には、料理屋で丁寧に作られた品に金を使って味わうことなど、滅多に出来ることではない。
おそらく屋台の寿司も、思い切って一度だけのつもりの贅沢だったのだろう。それを察した留五郎は「ここに来りゃあ、いつでもうめえもんが食える」と言い、「吉兵衛親方の腕は確かだからな」と三郎が言い添えて、「飯に困ったらここに来て、俺達んとこに来りゃあいい」と与助はいくらか心配そうな顔で又吉の肩を叩いた。
「いえ、そんな…そんなことしてもらっちゃあ、おら…」
三人が優しくしてくれるので気が引けてしまったのか、又吉はおどおどと落ち着かない様子だったが、「ありがとうごぜえますだ」とまた頭を下げた。
「それでよぉ又吉。おめえ商売の腕は上がったか?」
留五郎が違う話を切り出そうと又吉にそう聞くと、又吉はへへへと笑って頭を掻き、「あんまりうまいこといかねえもんでなぁ、番頭さんに叱られてばっかりだでなぁ」と答えた。
「そうかい、でもよ、番頭なんていい奴悪い奴いくらでも居るもんだ。叱られても気にしねえで、おめえの仕事をきっちりしな。それでうまくいくんだ」
留五郎がそう返すと、「へえ、ありがとうごぜえますだ」と又吉は嬉しそうに頷いた。
作品名:川の流れの果て(3) 作家名:桐生甘太郎