端数報告
と、おれは思ったんですが、どうでしょうかねえ皆さん。帝銀事件の少し前、平沢が安田銀行荏原支店をやってしくじっていた1947年10月にひとりの裁判官が死にました。山口良忠、33歳。ヤミの物資を買うのを拒んで配給だけの生活をしながら裁判官の激務を続け、栄養失調と過労で倒れた。「食糧統制法は悪法だが、しかし法律としてある以上、裁判官である自分が……」とか言いながらガクリといってしまったという人ですが、法律家の鑑なのかもしれません。
裁判官はルールを破った人間を裁く仕事なのだから、自分がルールを破ってはいけない。当然の話ですよね。悪法だろうと守るのが務め。《傍聴席の立ち見禁止》がたとえ悪いルールであっても、人にそれを守らせるのが職務の一部であるはずです。
しかしこの映画に出てくる一人目の判事は、「それは悪いルールである」と己の考えで勝手に決めて、だから守らんでいいものとする。自分の好きなルールだけが正しいルール。だから〈絶対のもの〉として若い見習い裁判官らに教え、「ワタシが法だ。ワタシは日本の法律など認めない。ワタシが〈法〉と定めるものが法律で、ワタシがお茶漬けを食べればそれも法律なのだ。だからワタシが『守れ』と言う法律は守り、『破れ』と言う法律は破れ。どんどん破れ。それが正義で裁判官の務めなのだ」と言って実践してみせている。
と、そうはなりませんか。加瀬亮演じる〈ボク〉にはそれがここでは都合いいものだから正しいように見て思ってしまう人がいるかもですが、変でしょう。ここでは、たまたま〈ボク〉にとって都合がいいというだけでしょう。ひとりの男の気まぐれでルールが変えられてるのであり、これは〈独裁〉でしかありません。ましてや《傍聴席の立ち見禁止》はここで描かれるように間違ったルールなのでしょうか。
おれはそう思いません。そんな人間がもし判事をやっていたら、即、罷免して法律を扱う資格を取り上げ、弁護士にもなれないようにするべきとすら考えます。正しいのはかの山口良忠であり、小日向文世演じる二人目の判事の方だと考えます。『それでもボクはやってない』という映画はまるで、
《裁判所には傍聴席の定員についての規則はなく、入れる限り何十人でも立ち見していいことになっている。のだが、許せないことに、自分の勝手でそれを追い出す横暴な裁判官が多くいる》
とでも言わんばかりの描き方をしていますが、嘘です。阿曾山大噴火が辛酸なめ子に、
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立ち見は禁止です。
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と話している通り、《傍聴席の立ち見禁止》は裁判所の規則としてハッキリ定められています。
当然でしょう。法廷とはいつなんどき、弁護士や検事が傍聴人に生玉子など投げつけられぬと限らぬ場所なのであり、被告人や証人を数人がかりで襲おうとする傍聴人が出ないと限らぬ場所なのであり、判事だって傍聴人の中に混じったテロリストの標的にならぬと限らぬ場所なのですから。その法廷に傍聴席が寿司詰めになるまで人が入るのを許していいか考えたら、あの映画が描いてることが嘘であるとわかりますよね。
てわけで周防正行という野郎は遠藤誠の同類であり、だから直接関係ないけど帝銀事件と今回のログは話が同じなんですけど、しかし阿曾山大噴火は、
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たまーに、今までで3〜4回くらいですけど、裁判官によって認めた例はありますけどね。
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とも言ってんだよなあ。どういうことだろ。ちょっとおれにもわからんのだけど。
先に引用したように、この人物は『裁判狂時代』文庫化時点で八千もの傍聴をしていたという。八年間で八千? ホントかよ、と思わないでもないことだが、相当な数をこなしているのは確かのようだ。
その男がこんなことを言っている。どういうことだ。例が3〜4回っていうのは、この阿曾山大噴火が自分で見た数なのか。
つまり、いつも裁判所では、役所広司が演じた正義の熱血弁護士みたいな嘘つきが冤罪運動するたび毎度、
「彼の無実を信じる人がこんなにたくさんいるってことを、裁判官にアピールすることになりますから」
などと言いつつ傍聴席に支援者をギュウギュウにまで無理矢理押し込み、そのたびに、怒った判事に「出てけ」とやられてるんだろうか。そんな例を996、7回見たけれど、しかしほんの3、4回、許したのがいたという。
阿曾山自身がその眼で見た例として、ということなのかなあ。それとも、自分じゃ見てないが、かつてどこかで3、4回例があったという話を知ってるということなのか。
たぶん後者で、立ち見を許して上から厳重注意を受けた判事が過去に三人ばかりいて、うちふたりはすぐあらためたが、しかしひとり、頑固に立ち見を許し続けて左遷されたやつがいたとか、そんな話じゃないんかしら。それも1970年くらいのことだったりして、以来もう50年、そんなのひとりも出ていないのに、いまだに弁護士野郎の中には支援団に「いいから入れ」とやって怒られ、
「あの判事は横暴だ。許した例がちゃんとあるのに」
なんて毎度やってやがんのが結構いる、と、そんな話じゃないんかしら。それがあの周防正行が描く話の真相じゃねえのか。
だいたい、あれも途中で変わった小日向文世が「ダメ」と言うから観客は見て横暴と思うだけで、最初の第一回目に「ダメ」と言われて追い出されたら普通のマトモな人間なら、
「そりゃそうだよな。変だと思った」
と考えるんじゃねえのか。普通。「この先生はちょっとおかしい。ついてっちゃいけない人間なのと違うか」と思うんじゃねえのか、普通。《傍聴席にはどれだけ人が入ってもいいことになっている》なんて、そんな話は常識的におかしいと気づかなければ変だろが。
おわかりでしょう。あの映画が描く話は嘘なのです。《自分にとって都合のいいルールだけを正しいとし、他に押し付ける一方で、守りたくないルールは破る。それが正義だ》という新自由主義者的な考えを、観客に植え付けるよう作られている。遠藤誠がオーケンと、『のほほん人間革命』の読者に対してしたと同じように。
アフェリエイト:のほほん人間革命
ルールがなんのためにあり、なぜ守らねばならないかわからんやつらが弁護士や裁判官になって法律をオモチャにする。まったく嘆かわしいことです。ましてやそれを〈正義〉として描く映画監督がいるなどとんでもないことです。そのうえ、それがキネ旬一位。ああ、この国はどこへ行ってしまうのか。
てわけで、ルールのなんたるかをちゃんと描いた小説が何かないかとお探しの方は、おれが書いた次の作などいかがでしょう。それではまた。
太平洋の翼(サイト〈ハーメルン〉に投稿の小説)
https://syosetu.org/novel/199628/