小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

端数報告

INDEX|37ページ/78ページ|

次のページ前のページ
 

 稲佐検事は躊躇しているのだ。この程度の資料で起訴するということは、自分の法律家としての良心が許さないと言って、最初、この申し出を突っ刎ねている。が、警視庁はあくまでこの線で熱心に迫るのだ。検事も折れて、裏付証拠がなくても、犯人が自白さえすれば起訴しようというところまで妥協し、その自白するまで起訴を待ってくれと、検事は答えている。これが九月の十日ごろのことで、こうなると、今度は警視庁は、自白さえすれば検事が起訴をするという、裏付証拠がなくてもいいと言うならば、これは自白させようではないかという空気が強くなった。そこで、調べ室に黒原捜査係長も加わり、検察事務官と検事と三交代で、毎日朝の十時に平沢を房から引き出し、調べを終って房に帰すのが夜の十一時だったというから、毎日十三時間ずつ調べたわけである。
 
アフェリエイト:小説帝銀事件
 
などと書いてある。書いてあるけど、刑事調べをなぜすっ飛ばすことになるかは書かれていない。
 
「稲佐検事は躊躇し」たと書いてあるけど、法律家の良心でなく平沢が大画家だから躊躇したんじゃないのかという印象がしなくもない。
 
てわけで、やっぱりほんとの理由は前に書いたアンドーナツの横車だったんちゃうのかなとおれは思うわけである。ジェネラル・ヘッドクオーター、マッカーサー元帥閣下が憂慮したのは日本国内のことではない。〈黒い霧〉など存在しない。
 
《テーギン事件はマッカーサーの実験だ》などという憶測がアメリカ本国にまで伝わり、民衆に広まって、民主党の政治家達や共和党の政治家達まで(ちなみに、おれはこのふたつのどっちがどっちか区別できない)それを読んでしまうこと。そしてカナダ、メキシコに、イギリス、フランス、スケベニンゲン、エロマンガ島の人間までがそれを読み、スターリンや毛沢東、そして朝鮮の金日成にまで事実と思われてしまうことだったのに違いない。
 
アメリカ陸軍長官が、「日本を共産主義に対する防壁にする」と演説したのは帝銀事件の20日前だ。本国ではハリウッドの赤狩りが始まり、朝鮮は北と南に分かれて戦争になろうとしている。帝銀事件四日後の1月30日にインドでガンジーが暗殺された。4月にソ連がベルリンを封鎖。8月の平沢が捕まった四日後にはアインシュタインがポーランドで、〈科学者による平和のための会議〉なんてものを始める。
 
という、そんなときなのに共産主義の防波堤になってもらわなければならない日本で《テーギン事件はマッカーサーの実験だ》。
 
まるきり事実無根なのに! ジェネラル・ヘッドクオーターズにとって、これほど迷惑な話はあるまい。だがこの事件では彼らでも、日本政府と警視庁に「早期解決を願う」との言葉を送るしかできない。
 
に決まってるじゃないか。そんなところに平沢貞通が現れたのだ。8万で売れる絵を描くのに10万円が必要な男。こいつ自身は8万で売れる絵を描いても8千円しか手にできない。だから一流の画家でいるため、詐欺をしてでも、12人を毒殺してでもカネを手に入れようとする。
 
そんな男が出てきてくれた。そこでまたまたジェネラルヘッドのQ太郎が「早期解決」と強く訴えかけたために、高木ブーが平沢を眠らせないで無理な自白を取ることになった。
 
という推論は、そんなに変な話ですかね。わけのわからない妄想にとらわれてしまう人間だけが、ありもしない黒い霧に迷い込んで出て来られなくなるんじゃないのか。
 
まあともかく、話を八兵衛に戻すけれども、彼も居木井も平沢の取り調べはしていない。『刑事一代』には、
 
   *
 
 せっかく捕えてきた平沢の調べをはずされて、中目黒の長屋(自宅)にひきこもっていたが、どうも落ち着かねえ。居ても立ってもいられねえって心境だ。オレたちの手から離れて、平沢は検事さんが調べてることがわかったよ。これもおかしな話でな。検事調べってのは、もともとが、われわれ刑事が荒ごなしをして、できあがったものを改めて記録に仕直すのが当たり前だ。警視庁がつかまえたホシを最初から、検事さんが調べることはまずない。わたしが知ってる限りでも、こうした格好の調べになったのは警視庁はじまって以来のことですよ。一課の事件ではね……。
 
アフェリエイト:刑事一代
 
と書いてある。八兵衛はこのとき35歳か。既に〈落としの八兵衛〉の異名を取っていたようでもある。
 
そこで思うに、どうだろう。吉展ちゃん事件で彼は、小原から〈重い自白〉を取った。小原は観念し、それまでのノラリクラリをやめてすべてを話し始めた。営利誘拐殺人は死刑と知っていただろうにもかかわらず。
 
詐欺の件では平沢もすぐアッサリと事実を認め、「画家人生は終わった」と言って泣いたとされる。つまり、〈重い自白〉であればいいのだろう。高木検事が取った自白は自白でない。羽根みたいに軽い自白だから自白でない。けれども〈重い自白〉なら、それはズッシリと重い自白であるのだから〈確たる証拠〉と言っていいことになるわけで、〈落としの八兵衛〉ならば平沢貞通から鉛のように重い自白を取ることがひょっとするとできたのじゃないか。
 
そう思うのはこの事件、小原にやったのと同じ手が使えるんじゃないかという気がおれにはすることだ。むしろ平沢は小原よりは落とし易い的(まと)なんじゃないかという気までがする。
 
言うまでもなく何度もここに書いてきた「アッ、スられた」だ。セーチョーの『小説』ではこれについて、
 
   *
 
 平沢は自供において、帝銀犯行の事実を認めつつも、紙入れを掏られた事実のみは、ほんとうです、信用していただきたい、と述べている。彼の、ごもっとも時代であって、この小さな真実だけは守りたかった。彼の見るところでは、帝銀に関係ある事実に関する限り、こと大小となく認めた以上、犯行に関係なきことなるが故に、(当時彼はそう思った)せめて、この真実だけを守るのは、あまりにもみじめに思ったのであろう、彼は卑屈な態度で、検事にその理解を求めている。
 
   *
 
などというのが〈山田弁護人弁論要旨〉として書かれる。が、《小さな真実》じゃなかろう。松井名刺は、小樽の刑事が訪ねてきて最初に聞かれたときにただ「失くした」と平沢は言えばよかったのだ。そうしておけば小原同様、警察としてはこの嘘をかえって崩しにくくなる。
 
が、平沢はそのときに、「三河島駅の待合室で、手提鞄に入れておいた財布ごと盗られ」たと言ってしまった。確かに届は出ているが、
 
「おかしいじゃないか。この届では、《電車の中でスリにスられた》となってるぞ」
 
「アッ、そうです。スリにスられました」
 
「スリの話がなんで置き引きに変わるんだ」
 
やってるうちに言うしかなくなる。
 
「スリです! スリにスられました! ほんとうです、信じてください!」
 
と。こうなるともう、スリに遭ったのが本当でないなら、松井名刺は盗られていないことになり、帝銀事件の犯人で間違いないことになってしまう。だからその《大きな嘘》にしがみつくしかなくなってしまう。
 
作品名:端数報告 作家名:島田信之