端数報告
画家バカ一代
例によって前回のおさらいからいきましょう。帝銀事件の犯人として平沢が捕まる前にはこの男をずいぶん悪く言ってた者が、裁判では言うことが変わる。『あれは信用できないやつだ』と言ってたはずが証言台では『信じられる』。
で、セーチョーが「ホラホラ」とその記録を振りかざして、「彼は犯人ではないのだ。GHQの実験なのだから当然だ」と言い張っている。そんな話でございました。
だがセーチョーは公開された資料を写しておきながら、どうも気づいてないようなのだね。その人物は事件の3ヵ月前に平沢から3千円で絵を買っていることに。おそらくその絵は3万円で転売できるだろうことに。
そのとき彼は平沢に、今の額にして100万円になるだろうカネを貸していたのだからだ。ゆえに彼は平沢から安く絵を買えたはず。
それを他人に高く売ることができたはず。今のお金で30万が300万。だが帝銀事件によって、30銭(せん)になっている。なっているけど無罪になれば、3千万になるわけなのだ。令和の今なら3億円。いやひょっとして30億。
そういう話でございました。事件前の平沢は、この話がまったくヨタでもなんでもないほどの大画家だったのだから――ただし、無罪にできればですけど。
そう思って見れば前回引用したセーチョーの『小説』の、その人物が法廷で言った
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「平沢は、あっ、掏られた、と言って、みるみるうちに顔が蒼くなった。お芝居ではこうはできないから、掏られたのはほんとうだと思った。平沢さんの掏られた財布は鰐皮の立派なもので、前から見て知っていた」
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というのは、
「30億だ! 30億だ!」
と書いてあるようにしかもう読めない。おれはそうだがあなたはどうです。
違うとしたらおれは眼がおかしいのかな。「30億だ! 30億だ!」と書いてあるようにしかほんとに見えないんだけど。
というわけで前回の続き。事件前の平沢は、すこぶる評判が悪かったらしい。セーチョーの『小説』には、主人公仁科が、
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平沢貞通の性格が、あのように奇矯でなかったら、帝銀事件の判決は、もっと違ったものになっていたかも分らない、と仁科俊太郎は思った。平沢には人間的な魅力を感じることが出来ない、とは、仁科の会ったこの事件の関係者が殆(ほとん)ど口を揃えて言っていることで、これは平沢にとって不幸であり、或は裁判にとっても不幸であったかも知れない。
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などと考えるところが書いてあったりする。平沢という人間は、絵を買ってくれそうな人を見つけて近づいて、まず言うのが「カネ貸してくれ」。返しにきたと思ったらポケットに手を突っ込んで「あ、スられた」。そんなことを年がら年中やってたとしか思えない。だから8万の絵を描いても、自分自身は8千円しか手にできなかったりしてたんちゃうのか。瑪瑙や翡翠を絵の具にするだけで何千円もかかるというのに……。
セーチョーの『小説』読んでいて、平沢が出てくるたんびにそんな気がする。しばらく前に引用したオーケンの本に、
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大槻「(略)この平沢さんという人は、大正十四年に狂犬病の予防注射のためにコルサコフ症候群という病気になっちゃったんですね」
遠藤「なっちゃったんですよ」
大槻「で、この病気というのが作話症。すなわち作り話をするのと、人からの暗示を受けやすいという――っていうのを読んだ時、なんだこりゃと思ったんですけど、こんな病気があるんですか?」
遠藤「あるんです」
アフェリエイト:のほほん人間革命
という、このゴルバチョフ症候群という病気のせいとも言われてるんだが、だったら帝銀事件だってそのゴディバチョコ症候群のせいだったんじゃねえのかよ、と言いたくなってくるくらいのものだ。
そしてそのチョココロネ症候群というやつは、そのせいでやったからと言って責任能力がないことにはならないものであるともいう。さてセーチョーが『小説』を書いた1959年には、先に引用した文に〈平沢には人間的な魅力を感じることが出来ない、とは、仁科の会ったこの事件の関係者が殆ど口を揃えて言っていること〉とあるように多くの人が平沢をケンもホロロに言ってたようだ。「あいつならやりかねない」「あいつならやるよ」「あいつなら」「あいつなら」――それが平沢貞通を直接によく知る者が言う言葉だったはずだ。
遠藤誠でさえも事件前の平沢を指して、以前引用した通り、
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大槻「じゃ、変わった人ではあったんですね」
遠藤「……ですね。それは言えます。だから、道徳的に見て、どうかと思われる面はありましたね。だから、百パーセント素晴らしい人格の持ち主でなかったことは確かです」
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と語る人間だったはずだ。けれども、それが10年くらいして変わってくる。おれの手元に新藤健一・著『写真のワナ』という本があり、著書はフォトジャーナリストを謳っているが、このほとじゃーなりすとさんが獄中の平沢貞通を隠し撮るのを成功した文が載っている。
引用しよう。
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私が帝銀事件の死刑囚、平沢貞道と会ったのは一九六九年七月九日、午前一一時二○分から同三五分の約一五分間だった。(略)平沢との面会は原則として過去に親交があった関係者と肉親だけに限られていた。(略)もちろん所内にテープレコーダー、カメラ、メモ帳を持ち込むことは許されない。だが、私は背広の左肩内側に28ミリワイドのレンズをつけたニコンSPを隠していた。(略)私の職業は自動車のセールスマンになっている。平沢への手紙にもそう書いてある。もちろん手紙の内容は、すべて検閲されている。だから、こちらの本心を彼に伝えることはできない。これは何も平沢をだますためのことでなく、職業が報道関係者であることがわかっただけで、手紙が平沢の手元に届かないからであった。(略)ボディ・チェックされたら終わりである。(略)
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でもって面会し、
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「どんな絵を描いているのですか?」
「今、知人にあげる雪の富士山を描いています。大きさは、これくらい(と、手を大きく広げてゼスチュアたっぷり)。もしシャバにいれば、今ごろはテンペラ画の人間国宝ですよ。今ほしいのは画材、特に色紙と麻紙です」
絵は彼の心の支えとなっているのか、絵の話になると平沢は目を輝かせる。私が面会する半年ほど前に贈った「雪の松島」のカラープリントも、絵の素材として大変役立った、と喜んでくれている。平沢はもともとテンペラ画の第一人者で、日本画壇の大家だった。横山大観にも師事した関係から、富士山の絵は一流で、文展でも「無鑑査」の実力だった。画号は「光彩」と名乗っているが、若かりしころは「大璋」といった。(おれ註:原文ママに引用したが、〈画号〉は雅号、〈大璋〉の璋の字は〈日へんに章〉と書くのが正しい。いずれにしてもその字はここに表示できないが)
「所内の生活はどうですか?」
「梅雨時なので神経痛が出ますが、建物も新しくなり、宮城県は気候もよいので快適です。夏は涼しく冬は湯タンポを入れますので、まったく“別荘”のようなものです」