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桐生甘太郎
桐生甘太郎
novelistID. 68250
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川の流れの果て(2)

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女は自分の鏡台の前に座り、薄い化粧を心持ち直そうと鏡を覗き込みながら、「どうしたい、早く布団へ入りな」と、首元や頬に白粉をはたき直していた。

又吉は部屋の真ん中に何か考え込むように立っていたが、その顔は座敷で騒いでいた時とは全く違い、憂鬱そうだった。
又吉は女を見ず、部屋の行灯がぽーっと灯って女を照らし、向こう側へ影が落ちるのを見ているように見えた。女は又吉の方を振り向いて羽織りを脱ぎ、立ったままの又吉にまた声を掛けた。

「どうしたんだい、御手水かい?」
不意に女がそう言って、又吉を子供扱いしてからかおうとした時、又吉は頬を弾き飛ばされたように女を見た。女が気圧されるような厳しさと、どこか切なげな、苦しそうな目だった。
「おら…!」
又吉は厳しい目つきでそう話し出そうとして、それから、それが決まりが悪かったように目を伏せた。行灯の灯りに照らされた又吉の顔はもう和らいでいたが、寂しそうで、悲しげであった。

「おら…おめえさまにそんなことして欲しぐねえだ。なんでかわかんねえけんど、それはいやだ…だから、その…」
女は大きくため息を吐いて首を振り、額に手を当てた。
「あたしじゃ不満かい?」
又吉は驚いて、また女を見つめ、今度は急き立てられるように口を開いた。
「違う!おめえさまは綺麗だ。ほんに、綺麗な女の人だから…だから…!」

泣きそうな顔になってそれ以上何も言えずにいる又吉を見て、女はびっくりしてしまったのか、しばらく口を噤んだ。女の顔は一瞬悔しさと悲しさに歪んだが、やがてふっと優しく微笑むと、部屋の道具で茶を入れようとして、鏡台の前を離れた。又吉も、女が茶を入れているので安心したのか、やっと畳の上に腰を下ろし、やっぱり下を向いていたが、温かい茶を受け取った。

女は、又吉とはいくらか斜交いに座って鏡台に肘を突き、その手の平に顎を預けて、ふっくりと頬を上げて又吉に微笑んだ。それは遊女がみんな慣れてしまう、諦めたように男を疎ましそうに見る顔ではなく、仕様のない恋人の男を許してやる女のようであった。

「じゃあ、話でもして、お茶でも飲んでったら。目の前に茶屋娘でも居ると思ってさ」
女がそう言うと又吉は初めて嬉しそうに笑って、それがあまりに幼く正直なので、女は少し瞼を下げたが、又吉が世間話を始めると、嬉しそうに聞き入るのだった。又吉は女が戸棚から出してきた茶菓子を摘み、女は鉄瓶を火鉢にくべて茶を入れ、二人は夜更けまでなんということもない話で、笑ってみたり悲しんでみたりした。


翌朝、布団が一組しかないので女と一緒に又吉は眠っていたが、奉公暮らしから早起きに慣れていたからか、女が目を覚ますと自分も欠伸をしながら起き上がり、また白粉を塗り直す女の後ろ姿を見ながら、手持無沙汰に枕元の窓の障子など開けてみたりしていた。

「朝だでなぁ」
江戸の屋根が、どれも皆同じように昇り始めた陽の光を赤や金に照り返して、目を焼くほど強く輝くのを見て、又吉は満足そうにため息を漏らした。


「おーい又吉ぃー!急いどくれぇー!俺達ぁ仕事があるんだ!もう帰んなきゃなんねえ!」
「はい!はい!今行ぐでなぁ!」
又吉は急いで梯子段を降り、店の出口で大声で呼んでいる三人の元へ駆けて行こうとしたが、見送りに来た女が急に後ろから又吉の袖をぐいと引いた。
「な、なんでぇ?」
又吉が振り向くと、さっきまで又吉を優しく見つめてくれていた女の、険しく悲しそうな目とかち合った。

女は又吉の目を見るのが辛いようにすぐに下を向いて、身をぶるぶる震わせていた。だが、弱弱しく伏せられた顔をもう一度上げると、小さな声でこう言って、頼み込むように又吉の目を見つめた。
「もう、あんたは来るんじゃないよ」

女の顔には、悲しみがあった。遊郭へ身を沈めたからにはそこで生き抜いていかねばならず、やがてはそこで病で死ぬことがほとんど初めから決められている悲しみ。
やりたくもないことを毎日毎日せねばならず、いっそ死んでしまいたいと思っても、誰に漏らすことも叶わず、ただ終わりまで歩いて行くだけの悲しみ。
そして、それを一瞬でも優しく気遣ってくれた又吉に頼りたくとも、又吉の優しい心根を思えば到底出来はしない、我が身の悲しみ。


又吉がそれをどれほど察したかはわからないが、又吉も悲しそうな顔をしてしょんぼりと肩を垂れ、女には何も言わずに、留五郎達の方へと踵を返して歩いて行ってしまった。