川の流れの果て(1)
「こらぁ、うめえだ!」
「烏賊の腸と烏賊の身を焼きながら和えるんだ。うまいもんだろう」
吉兵衛は手を休めて煙草盆の前に座り込み、田舎から出てきて初めてワタ焼きを食べたのであろう又吉を、微笑ましそうに見ていた。お花はお茶を入れておとっつぁんに渡すと、自分も湯飲みで茶をを飲みながら、座敷の方をちらちらと盗み見ては顔を赤くしている。
留五郎が脇にあった煙草盆の炭に咥えた煙管の先を近づけ、三郎も膳に乗った刺身で一杯やりながら煙草を吸っていた。与助は飲むことに専念したいらしく、酔っぱらうままに酒を煽ってはしゃっくりを始めている。
「それにしてもお前さんよぉ。俺ぁ驚いたぜ」
「あにがですだ?」
烏賊をぺろりとたいらげて柏と芋の煮つけに箸をつけている又吉は、またその味に驚いたのか嬉しそうな顔をして目を見開いている。
「何がって。おめえさんは大したいい男だ。役者になれるほどさ。奉公人にしておくなんてなぁ惜しいぜ」
煙管をすぱすぱと細かに吸いながら、留五郎はもったいぶってそう言った。すると又吉は、煮つけを詰め込んだ口を閉じながらも一生懸命首を横に振り、急いで口の中の物を飲み下してこう答えた。
「いんや、おらなんてそんなことねえですだ。番頭さんはおらのことを田舎モンだ田舎モンだって言いますだで、おらなんて…」
留五郎は馬鹿馬鹿しそうに笑いながら首を振って、三郎と与助は驚いて又吉を見つめていた。
「そんならお前さん、女に言い寄られたこともねえのかい?そんな面ならいくらでも引く手あまただろうによ」
与助がそう聞くと、又吉は急に顔を赤くして、「おらなんか、全然…」と言い切ることも出来ずに背中を丸めて小っちゃくなってしまった。
職人仲間三人はそこでどっと笑い、腹を抱えた。十六、七の男が女の話で決まり悪そうに恥ずかしがるのがおかしくて堪らなかったのだろう。又吉は笑われて恥ずかしそうにしていても、怒ることはなく、ただ真っ赤になって曖昧に笑って黙っていた。
「いやいや、悪かったよ笑っちまって。でもよぉお前さん、男たるものいつまでそうじゃいけねえよ。好きな女の一人も居ねえのかい?」
留五郎がそう言うと、又吉は小っちゃくなったまま目だけを留五郎に向けて、「いねえですだ…」とまた済まなそうに答えた。
「こいつぁ変わった奴だ。まあでも商売人はかたくなくちゃならねえ。そのうちにはお前も江戸で所帯を持つんだからな。それとも、のれんを分けてもらったら国へ帰るのかい?」
与助にそう聞かれると又吉は急にかしこまって背を正した。
「へえ、国へ帰って商売して、おっとうとおっかあが死んでなくなった店を、
おらがまた立て直してえんでごぜえます。だから頑張って商売を覚えて、身を立ててえんでごぜえます」
そう言って又吉は前を向いて、一度強く頷く。三人は感嘆して、吉兵衛も感心したように緩く何度か頷き、お花は嬉しそうに笑った。
「すげえじゃねえかおめえよ!その意気だ!おとっつぁんとおっかさんが見てるぜ!」
三人はそう言って又吉の肩を叩いて酒を注いでやり、又吉は嬉しそうにそれを飲んでいた。
「門限を守れねえとまた叱られますで、おらはもうここいらで失礼しますだ。どうもほんとうに馳走になって、済まねえですだ」
又吉はそう言い残して、ぴょこぴょこお辞儀をしいしい、帰って行った。
飯屋に姿を現した又吉の話を始める前に、「柳屋」に入り浸る三人の男について話しておく必要がある。この三人は深川に数軒ある紺屋の中で、弥一郎という名の親方が営む紺屋の、住み込みの職人であった。弥一郎は義理に厚く良く気のつく親方で、話の長いのが玉にキズだと陰で職人たちに愚痴をこぼされながらも、職人は皆良く働くので、弥一郎の店はだんだんと大きくなっていった。
作品名:川の流れの果て(1) 作家名:桐生甘太郎