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一生勉強、一途に文芸道~小説と私~

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 多分、江戸を舞台にした短編時代小説だったと思う。「望郷」という作品が「コスモス文学新人賞奨励賞」を受賞した。「コスモス」は全国規模の同人誌で、会そのものが年に四度、「新人賞」「新人賞奨励賞」などを募集していた。新人と名は付いても、要は普通の文学賞で何度でも受賞のチャンスはある。
 私は入会以来、何とか入賞したいと願っていて、その「望郷」での入賞が初めての受賞だった。
 その時、同じ短編小説部門で最優秀に当たる新人賞を取ったのが年齢も近い、若い女性だった。タイトルまで鮮明に覚えている。「天にてむすばれし」というタイトルだった。
 キリシタンの青年と吉原の遊女の悲恋らしい。ーらしい、というのは私がその作品を読んだことがないからである。
 タイトルも内容も、とても惹かれるものを感じた。読みたいと思ったが、一方で読むのに抵抗もあった。抵抗というよりは、怖れという感情が近いかもしれない。
 何が怖いかといえば、その作者の才能を見せつけられるのが怖かったのだ。私は奨励賞であり、次点だった。その作品は最優秀である。
 つまらない理由だ、何という狭量な人間だ。そんな声が聞こえてきそうだし、自分でもそう思う。自分という人間のあまりの小ささに、当時もやはり自己嫌悪に陥ったものだ。
 そんな時、たまたま私は同居している母にその心境を話した。と、母がこんなことを言ったのだ。
ーそんな風にばかり考えんで、読みたいなら取り寄せて読んでみればええが。仲間同士で作品(該当作掲載同人誌)を買うてあげれば、その人のためや同人会のためにもなるし、あんた自身の勉強にもなるよ。
 極めて健全な思考というか、当たり前的、前向きな考え方だと思った。もしかしたら、母が「書くこと」にはまったく興味がないからこそ言える言葉だったのかもしれない。私も例えば陶芸や絵画など、自分がまったくやらないジャンルなら、素直に見たければ見るし、見たくなければ見なかっただろう。
 けれど、母の性格を考えれば、たとえ自分が書く人間だったとしても、私にアドバイスしたように素直に他の人の優れた作品を手に取ろうとするとも考えられる。
 あまり良い意味ではなく、私は複雑なのかもしれない。もしかしたら、ややこしい人間だとも言い換えられるかもしれないがー。
 結局、私は母の言葉に背を押され、同人会に連絡して「天にてむすばれし」掲載誌の購入を申し込んだ。ところが、しばらくして同人会から連絡があり
ー○○さんと連絡がつきません。転居先も不明です。
 とのことだった。同人誌だから、利益追求団体ではない。同人誌に自作を掲載するためには入賞作といえども、掲載費用を負担しなければならないという実情があった。
 「天にてむすばれし」は残念なことに、同人誌に掲載はされていなかったので、作品を読むなら作者に連絡を取る必要がある。主宰者の方はわざわざ作者に連絡を取ろうとしてくれたのだが、時は既に遅く転居されていたというのだ。
 コスモス文学では会員、同人の後押しをしてくれており、入賞者はマスコミに通知してくれる。それで、地方紙が取材に来てくれることもたまにはあるのだ。
 その方も地方紙で取り上げられたらしく、同人会が発行する機関誌でコピーを見た。車椅子に載っている女性が微笑んでいる作者近影があった。
 一体、どんな方で、どのようなお話だったのか。ちっぽけなプライドのせいで、今も読めなかったことへの後悔が残る。タイトルとあらすじから大体の想像はつくが、なかなか興味をそそられるものがある。
 まだ私が二十代の若かりし頃の話である。三つ子の魂百まで変わらずという。どうやら、ややこしい性格はいまだに健在で、「後宮の烏」を初めて読んだときも、そのときに近いものがあった。
 ただ、あれから気の遠くなるような歳月が経った。私も結婚、妊娠出産、子育てと経験して、多少はー本当に微々たるものだが、少しは精神的に成長はした。
 自分より優れた人を前にして怖れと憧れを感じるのは変わらないとしても、読者として愉しみ、また書き手としても読んで学びたいという向上心をいささかは身につけている。
 また、この作品がどこか必殺仕事人的な要素があるように思えてならない。といえば、作者の方は心外だと言われるかもしれないがー。
 特殊な能力のあるヒロインが悩み迷える者に救い手のを差し伸べるという構図は、まさに私の好きなあの仕事人の世界なのである。
 この世に生きている限り、光と闇があり、晴らせない憎しみも恨みもある。本書は恨みを当人に代わり晴らすというものではないが、やはり、仕事人の世界観だなと感じるものが確かにあるのだ。
 私がこの作品に惹かれる理由は、そこにもあると思う。
 生きていることに救いがあるーと感じさせるような作品が私は好きなのだ。だから、自分自身もそんな風に読者にわずかなりとも、希望や救いを感じて貰えるような作品を描きたいと常々思っている。
 そして、「天にてむすばれし」を読み逃した大昔ともう一つだけ、今の自分が違っているところがある。
 それは、自分は自分にしか書けない物語があると、知っていることだ。それはもちろん、自分に才能があるとか、そういう意味ではまったまくない。
 どんなに駄作であったとしても、自分にしか出せない作品のオリジナリティー、個性とも言い換えられるだろう。
 恐らく、ノベリストで活躍されている皆さんにもその数だけの物語があり、その数だけのオリジナリティーをお持ちに違いない。書き手、作品の個性だ。
 それは作品の完成度とか、受賞できるレベルの作品かどうかという次元とはまったくかけ離れたところの問題である。
 だが、長年、アマチュアとしてこの道を歩いてきた私は知っている。大切なのは作品の完成度だけではなく、その人が書き手として持っている持ち味だと。
 だから、多少の怖れがあったとしても、素晴らしく、なおかつ興味をそそられる作品ならば読んでみる。
 たとえ、どれだけその作品に圧倒されたとしても、恐れよりはむしろ
ー自分も頑張って、こんな風な作品を描きたい。
 というように恐れを憧れに昇華する。
 もちろん、「こんな風な作品」というのは、この作品と同じようなという意味ではない。「この作品のように読み手の心を動かし、満たされた気持ちにできる」作品ということだ。どれだけ優れていても、模倣や真似をした作品は読み手の心を動かせない。まず、それ以前に、自分自身が書いても納得できないだろう。
 少し強引に言い切ってしまえば、作品の素晴らしさは完成度ではなく、書き手の持ち味にこそあるのだから(受賞を目指している皆さん、文学賞ではやはり完成度は最重要事項です、しかし、敢えて、ここでは、このような言い方をしました)。
 以上、非常に手前勝手なことばかりつらつらと述べ立ててきたが、もし、この拙文をご覧になって、ご自分にも多少は似たところがあるかな、共感できる部分があるかなと同じ道を歩む書き手仲間として感じて下さったとしたら、こんな嬉しいことはない。
  
☆「一生勉強、一途に文芸道」