このコーヒーを飲み終えたら
木曜日の晩
達也はカウンセリングが開かれるという夕方、多賀駅の改札を出たところで立ち止まった。
町田医師のクリニックに行こうかと迷っていたが、やっぱり自宅に帰ろうとすると、また気が重くなってしまった。結局、町田から聞いた住所に足を運ぶことにした。
多賀駅から大通りを渡って、いつもと違う方角へ曲がった。その先には先日、町田と出会った河川敷につながる土手沿いの遊歩道がある。土手の桜並木から、見ごろを終えて、地面に落ちた花びらを踏みしめているが、今年はまだ温かさを感じる日が少ない。実際、達也のビジネススーツも冬服のままでいる。しばらく歩くと、湿った草のにおいがする草むらの向こうに、“町田クリニック”と表示された看板が見えてきたが、その看板に明かりは灯っていない。
(今日は休診日だからだろうか)と達也は思った。
クリニックの玄関に着いたものの、達也は戸惑った。中は暗く人の気配が全くしない。
(やはり今日は誰もいないのか?)
両開きの古いガラス戸を引いてみると、カギは掛かっていなかった。足元をのぞき込むと、何人かの靴が脱ぎ置かれているのを見て、少し安堵した。中は静かだが、やはり人が集まっているようだ。しかし、待合室には明かりが灯っていない。
(このまま入ってもいいのだろうか?)
こういう時は、どんなふうに声を掛ければいいのか分からなかった。
(御免下さいかな? 病院に「ごめんください」って変か。「今晩は」かな? それとも「済みません」)
結局、達也は、
「こんばんわー。すみませーん」
と声をかけてみた。
すると奥のドアが開いて、明かりが待合室を照らした。
「あら、どなたかしら」
そこに現れた女性を見て、達也はハッとした。
「あなたは・・・」
その女性はいつか、多賀駅前で倒れそうなくらい力なく歩いていた女性だった。あの時の作業服も着ているから間違いない。
「わ、私は、町田先生からカウンセリングを勧められて来たんですが、こちらで良かったでしょうか?」
「はい、そうです。これから始まるところです。どうぞお上がりになってください」
達也は急いで靴を脱いだが、他の誰も下駄箱に靴を入れていないのを見て、自分も向きだけ揃えて患者用のスリッパを履いた。そしてその女性に導かれて奥の部屋に入ると、そこは診察室ではなく、流し台のある休憩室のような部屋だった。そこに4人の男女がテーブルの椅子に座っている。
「こんばんわ。初めまして下村といいます」
「自己紹介はまだあとよ。まずは落ち着いて、今日何を話すか考えてみて」
案内した女性が達也に椅子を引いて腰掛けるように促し、インスタントコーヒーを淹れてカップを手渡すと、彼女もそのまま隣の椅子に座った。
達也は今になって初めて、カウンセリングとはどういったものなのか疑問に思った。ここに来るまで特に、何を話そうかなどと考えていなかったし、他の誰かの話を楽しみに来たわけでもない。
作品名:このコーヒーを飲み終えたら 作家名:亨利(ヘンリー)