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亨利(ヘンリー)
亨利(ヘンリー)
novelistID. 60014
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このコーヒーを飲み終えたら

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金曜日の晩



 夜も更けた閑静な住宅街。下村達也は自宅の前に立ち、明かりの灯ったマイホームを見上げた。門を開くと、庭に散った桜の花びらが少し舞った。玄関に歩を進めカギを開け、ドアを半開きにしたところで一息ついてから、喉の奥で声を押さえて言った。

「ただいま・・・」

・・・・・・。

 家の主が帰宅したのに、待っているはずの妻・紗英と息子・隆志の返事はない。いつものことである。仕方なく黙って家に入った。
 最近の達也は、帰宅時間がだんだん遅くなってきている。仕事が忙しいわけではなかった。なんだか帰宅するのが怖いのだ。妻と会話を交わすことは、ほとんどなくなってしまった。前回会話したのはいつだったか。3か月ほども前のような気がする。息子に話しかけても、最近の中学生はスマホばかり触っていて、父親の話など気にしているのかどうか。相槌を打っているが、まともに聞こえているのかさえ分からない。
 キッチンに行くと溜息をつく、やっぱり今日も食事の用意はされていなかった。達也と紗英との関係は冷え切ってしまったようだ。そんなことは解っているが、達也はそれを認めたくはない。だから文句は言わず、自分で夜食を作って食べるだけだ。もっとも冷凍食品をチンするぐらいしかできないのだが、味気ないメニューにまた溜息をつく。でも食後に淹れるコーヒーは、安らぎのためのルーティーンでもある。

 翌朝、達也が仕事に行く前、いつも通り自分でトーストしたパンを立ったまま食べていると、外にトラックが停まる音がした。こんな朝に何だろう。キッチンの窓から、外をのぞくと配達員がポストに何か箱を入れるのが見えた。
 出勤前は忙しいのに、土曜日は紗英と隆志はまだ寝ている。バッグを担いでトーストを口にくわえたまま外に出た。門のポストには“メール便”と書かれた薄い箱が突っ込まれていた。
「こんな朝早く・・・」(誰からだろう) 
達也は差出人を確認しながら、玄関に戻った。荷物に貼られたその送り状の差出人欄には「本城奈美恵」と書かれている。
(紗英の知り合いだっけ? あれ? 隆志宛か。中身は? ニット帽。プレゼントか何か?)
「ふーん?」
達也はその包みを、スリッパラックの横に置いたまま、急いで家を出た。今朝はコーヒーを飲みそびれてしまった。

 達也は、その日の帰りはいつもより早く、明るい時間帯に最寄りの多賀駅の改札を通った。
(こんなに早く帰宅するのは久しぶりだな)
そう思いながら、週末の夕方、人出でごった返す多賀駅前のロータリーに出ると、そこで一人の地味な女性の姿が目に留まった。達也より少し年上くらいの女性だが、着ている作業服も不自然、人ごみの中どこか不安そうな表情で、今にも倒れるんじゃないかと思うくらいに、力なく歩いている。
(大丈夫かな?)と、横断歩道で信号待ちをしながら、その女性から目が離せなかった。
 達也は声をかけるのも変だと思って、その女性をそのまま見送ったが、よく考えると自分も今、周囲からは、あんな表情でいるように見えているのかもしれない。